横浜山手 ベーリックホール

異人たちの足跡1 バートラム・ベーリック

ゆったりとした地割りに洋館が点在する横浜の山手本通は、今も居留地時代の風情が漂う。外国人墓地を右に見て緩やかなカーブを進んでいくと、左に山手聖公会、右に元町公園の緑が見える。その先の大きな屋敷が、山手に現存する最大の洋館、ベーリックホールである。

ベーリック一族

レッサー・ベーリック氏が、ロンドンで有限会社ベーリック・ブラザーズを開設したのは、1868(明治元)年のことであった。その後、ジョージ、ヨセフ、バートラムの三人の息子たちが会社を引き継ぎ、日英貿易に乗り出していった。1898(明治31)年、若干20才のバートラムは、日本支社に赴任するため横浜に降り立った。事業は躍進し、ロンドンを拠点に、パリ、ブリュッセル、ウィーン、国内では神戸、大阪、東京にも代理店を置くようになった。商会は洋紙、化粧品、香水、文房具などを日本に輸入し、日本からは和紙、シルク、漆器類を輸出した。

山手の暮し

横浜山手のベーリックホールは、バートラム・ベーリック(Bertram Berrick)の邸宅であった。元々住んでいた家屋が関東大震災で倒壊したため、バートラムはアメリカ人建築家のJ.H.モーガンに、新築する自宅の設計を依頼した。モーガンは他にも、近隣の山手111番館や、山手聖公会、根岸旧一等馬見場などの設計で知られる。1859(安政6)年に横浜が開港すると、ビジネス・チャンスを狙って多くの欧米人が来日し、山下居留地に商館を建て、山手居留地に住んだ。明治政府は、日本人と欧米人との衝突を回避するために、半永久的な土地貸与の見返りに、居留地をもうけて欧米人の行動を制限した。イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、ドイツなど、様々な国籍の人々が、居留地という狭い地域に共生していたのだ。もしその頃、そこに住んだり、通りを歩いたりすることができたなら、それはいったい、どんなものだったのだろうか。1899(明治32)年に居留地制度は廃止されたが、その後も山手地区は外国人住宅の建ち並ぶ瀟洒な街として残った。

しかし山手地区は、1923(大正12)年の関東大震災と1945(昭和20)年の第二次世界大戦の横浜大空襲という、二度の壊滅的な事態を経験することになる。そして、かつての姿は、その後再生することはなかった。ベーリックホールは、関東大震災後の1930(昭和5)年に建築され、奇跡的に第二次世界大戦を生き残った昭和の文化財である。

ベーリックホール

門を入ると、緩やかなカーブを描く小道が、ぐるりと芝庭を囲んでエントランスに続いている。エントランス前のアプローチには、折々の草花が花をつけ、来訪者を温かく迎えてくれる。左右対称、オレンジ色の丸瓦、開口部のアーチなど、全体のデザインはスパニッシュスタイルで、玄関ドアにはアール・ヌーヴォー調のアイアンキャスティングが施されている。ベーリック家が所有していた頃はもちろん、靴のまま部屋に入っていたのであろうが、今は日本式にスリッパで室内を歩くようになっている。

入って右手にあるのは、広いリビング、左手はダイニングへと続くレセプションルームである。リビングは、ボールルームと言ってもよいほどの広い空間で、東側の窓辺が仕切られて、パームルームと呼ばれるサンルームとなっている。このパームルームとエントランスのフロアは、大胆なモノクロの市松模様である。この模様を使って、ベーリック家の人々はチェスに興じたことがあったかもしれない。階段のハンドレールも、優雅なアイアンキャスティングで飾られている。

二階はプライベートな空間で、ベーリック夫妻のそれぞれの寝室と子供部屋がある。バートラムの書斎には、彼が使っていた机とタイプライターが置いてあり、背後の壁にはバートラムや妻のガートルート、息子のロバート、娘のマーガレットとその夫など、家族の写真が架かっている。温厚で勤勉そうなバートラムの写真を見ると、机の上のタイプライターを叩く音が聞こえてきそうな気がする。ガートルード夫人の部屋には、キャビネットの上の小さなショーケースに、櫛や髪飾りなどが展示されている。子供部屋は展示用にアレンジされてしまっているが、クローバー型の飾り窓がかわいらしく、また印象的である。幾何学的な正方形の格子と、半円形のクローバーのモチーフが組み合わされた小さな窓は、家の中に優しい光を届けている。子供部屋の他、合計4つのクローバー型窓がある。

バートラム・ベーリックとベーリックホールのその後

1938(昭和13)年、戦争の迫る不穏な空気の中、バートラムは仕事を整理して、家族とともにカナダのバンクーバーに移住した。バートラムは余生を好きな絵に費やし、10年後、カナダで永眠した。戦後、遺族が土地と建物を、日本のカトリックマリア会に寄贈し、ベーリックホールは1956(昭和31)年からカトリックマリア会の運営するセント・ジョセフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎として使われた。セント・ジョセフの卒業生には、世界的アーチストのイサム・ノグチの他、E.H.エリック、岡田真澄、三船美佳などがいる。残念ながら2000(平成12)年に最後の卒業生を送り出して閉校となった。ベーリックホールは、2001(平成13)年に横浜市が土地を取得し、その後建物についてもマリア会から寄贈を受けて修復の後、一般公開されている。

ベーリック一家がこの邸宅で過ごしたのは、わずか8年余である。しかし、山手が山手らしさを残していた最後の時間を、彼らがこの家とともに過ごしたことは間違いない。100年以上前にイギリスから日本に渡り成功したビジネスマン、バートラム・ベーリックの邸宅に、横浜の歴史を感じてみたい。

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