横浜 山手十番館

異人たちの足跡 9 ワーグマンと居留地の暮らし

横浜山手には、港の見える丘公園や山手本通など、ゆっくりと歩きたい場所が多い。山手十番館は、山手本通の外国人墓地向かいにある洋館で、散策の合間に、ほっと一息をつくのによい場所である。

山手十番館

昭和42年に創業した山手十番館は、2階建ての洋館で、1階がティールーム、2階がフレンチレストランになっている。1階の入口を入るとケーキのショーケースがあって、好きなケーキ+400円でセットにできる。他にアップルパイやプリンのフルーツデコレーションが、お茶とセットで1000円くらいから。コーヒーには、砂糖とミルクの他、ホイップクリームも付いているので、ウィンナーコーヒーを楽しむこともできる。静かで落ち着いた雰囲気の中、落ち着いた午後の一時を過ごすことができるティールームである。

かつて横浜に居留地があった頃、このレストランの界隈には、イギリスからイラストレイテッド・ロンドン・ニュースIllustrated London Newsの特派員として来日していたチャールズ・ワーグマンが住んでいた。

横浜居留民としてのワーグマン

本業であるニュースの仕事以外にも、滞日中、ワーグマンは様々な活動をしていた。その一つは、1862(文久2)年7月から22年間に渡って発行した、横浜居留地の住民向け風刺漫画雑誌ジャパン・パンチThe Japan Punchである。しばしば行動をともにしていた写真家のフェリーチェ・ベアトや、英国日本語書記官から公使まで勤めたアーネスト・サトウ、英国公使館付医官のウィリアム・ウィリス、世話好きのW.H. スミス、貿易商のノールトフーク・ヘフト、日本人では三菱財閥の岩崎弥太郎のなど、漫画を見ればすぐにわかる人物が数多く登場する。居留地の出来事やちょっとした事件、居留民の人間関係や、裁判の結末などが、ユーモアたっぷりに描かれている。後年、この雑誌の名前がなまってポンチ絵と言う言葉が生まれ、現代日本の漫画文化へと継承されて行くのである。

ワーグマンは、居留地社交界の女王だったマーシャル夫人のサロンの常連だった。マーシャル邸には、横浜に住む外交官や、商館主、寄港した軍艦の艦長や、数十日の船旅の途中に日本に降りた旅行者などが集った。ワーグマンの記事が載ったイラストレイテッド・ロンドン・ニュースは、当時イギリスで大いに読まれ、横浜のクラブにも置いてあった。そのため、ワーグマンの知名度は高く、また社交的な性格のワーグマンは、サロンでも人気者だったようだ。居留地でのワーグマン評は、何にでも首を突っ込み、あらゆることに関心があって、ウィットに富んだ楽しい男、というものだった。

また、ワーグマンが、日本食や日本の習慣に馴染もうとする様子がアーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』に記録されている。サトウは、ワーグマンと大阪から江戸に戻る旅の中で、次のように書いている。「ワーグマンと私は、だいぶ日本食にも慣れてきたので、食料は何1つ携帯せず、またナイフ、フォーク、フィンガーボウル、テーブル・ナプキンなどを持って行かぬことにした。」

私生活では、1863(文久3)年に小沢カネと結婚し、翌年、一郎が生まれた。この頃ちょうど、ワーグマン一家は山手102番(山手十番館前の通りを50mほど行った辺り)に居住していた。1865(慶応元)年からは、洋画を志望する日本人の弟子を取り、系統的な油絵の指導をした。またいつの頃からか、趣味で三味線を弾くようになったという。日本語に関しては、読み書きの他に、長州弁と薩摩弁を使い分けるほど堪能で、漢字で「惑満」とサインすることもあったらしい。

晩年のワーグマン

1887(明治20)年、ジャパン・パンチの刊行を終えたワーグマンは、イギリスに帰国し、4ヶ月後に日本に戻ってきている。一説には、この頃すでに精神を病み、療養のために帰国したものの、長年暮らした日本への念やみがたく、治療を断念したとも言われている。翌年もう一度イギリスに帰り、弟ブレイクとロンドンで展覧会を開いた。しかしこれは成功しなかったようである。日本に戻ってからのワーグマンは、病床に伏し、精神的にも不安定だったようだ。1891(明治24)年2月8日、3年間の闘病の末、横浜で没した。墓は妻の実家の菩提寺である横浜市中区の善行寺と、友人らが山手の外国人墓地に立てたものと、2カ所が知られている。58年間の人生のうち、約30年を日本で過ごし、ワーグマンは日本の土となった。

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