熱海 MOA美術館

琳派の匠 3  尾形光琳

一年で最も寒いこの季節、静かに春の到来を教えてくれるのが梅の花である。熱海のMOA美術館では、ちょうど紅白の梅がほころび始める時期に合わせて、毎年、尾形光琳の『紅白梅図』を公開する。金屏風に描かれた光琳の梅と、美術館の梅園に咲く梅の花。2月の熱海を訪れたなら、春の気配を感じる二つの梅を訪れてみてはいかがだろう。

MOA美術館

静岡県熱海市のMOA美術館は、JR熱海駅からバスで10分。海の見える小高い丘の上にある。日本の作品を中心とした東洋美術の粋を集めたコレクションは、絵画、書、陶磁器、螺鈿細工や金工品など多岐にわたる。

美術館の建物に入り、誰もが驚くのは長いエスカレーターだ。半円形の天井はカラフルな色彩にライトアップされ、上っていくと、建物の奥に吸い込まれていくかのように感じる。3回エスカレーターを乗り継いだ後、ようやく丘の上の美術館の本館に到着する。相模湾を望むロビーからは、すばらしい景色を見渡すことができる。

展示室に入る前に、まず能楽堂と金の茶室に案内される。金の茶室は、豊臣秀吉の組み立て式の茶室を再現したもので、京都御所内の小御所に設えたと伝えられている。秀吉は、ここで正親町天皇に茶を献じたという。

なお、展示室は5つのセクションに分かれており、展示品は随時入れ換え制なので、お目当ての作品が展示されているかどうかは、事前に問い合わせて確認したほうがいい。

梅園は、美術館の入り口からスロープをわずかに下ったところにある。なだらかな丘陵の小道には、38種類280本の梅の木が枝を広げている。中ほどに小さな茶屋があり、お抹茶と干菓子をいただくことができる(500円)。

光琳屋敷(復元)

美術館の庭園内に、尾形光琳が最晩年を過ごした京都の屋敷が再現されている。1712(正徳2)年に建てた家を、光琳自ら描いた図面と、大工の仕様帳を元に復元したという。晩年の5年間を過ごしたこの家で、光琳は『紅白梅図』を仕上げた。

尾形光琳(1658-1716

光琳は、江戸時代初期に、京都の染織・呉服の豪商「雁金屋」の次男坊として生まれた。幼い光琳の周りには、古典柄や流行の模様があふれており、ごく自然に、日本の造形美に触れて成長した。

子供時代の光琳は、着物の図柄を描いて喜ぶものの、それを真剣に学ぶというようなことはなかったという。1687(貞享4)年、父・宗謙が亡くなると、長男が雁金屋を継ぎ、次男・光琳と三男・乾山(陶芸家)にも莫大な遺産が残された。しかし光琳は遊里に出入りする享楽の暮らしを続け、わずか5年で遺産のすべて遣い果たしてしまう。1693(元禄6)年には、家屋敷さえ処分するほどの困窮した生活を送っていたが、生来の浪費癖は治らず、弟の乾山からも借金をするありさまだった。一方、乾山は地道な努力家で、陶芸家としての地位を固めつつあった。

1697(元禄10)年頃、光琳は7才年下の多代と結婚し、三人の男子を授かる。これまで、金のために絵を描くということに抵抗があった光琳だが、妻子を養うためには絵を描くより他になかった。光琳は絵師としての仕事に専念したが、尚も収入以上に消費する暮らしはやめられず、常に経済的不如意に苦しんだ。

1704(宝永元)年頃、光琳は江戸に居を移した。中村内蔵助や江戸の材木商・冬木家をパトロンとして絵を描くためであったが、1707(宝永4)年には、姫路藩主・酒井家から十人扶持を与えられ、専属絵師となった。この酒井家から、50年後に酒井抱一が誕生し、光琳が酒井家に残した絵を見て、絵師としての才能を開花させるのである。しかし光琳は、酒井家の屋敷に行って、毎日数幅もの注文画を描かねばならない生活に消耗してしまう。結局、1709(宝永6)年頃から、時々京に戻って自由を満喫するようになった。そしておそらく、この頃に俵屋宗達の『風神雷神図』を見て模写を行ったのではないかと考えられている。光琳は宗達の絵から多くを学んだが、それ以上に、自己の本質を自覚し、本当に描きたいものを発見した。

1712(正徳2)年、光琳は京都に戻り、京都の新町通り二条下ルの地に 終の住処となる屋敷を建てた。この家の二階で生まれた『紅白梅図』は、絵師・光琳の集大成であった。

『紅白梅図』(MOA美術館蔵)

強烈な印象を与える中央の黒い流れ。そしてその両脇に咲く若木の紅梅と老木の白梅。光琳は対照的な二つの梅の木に、いったい何を語らせようとしたのだろうか。

向かって右側の紅梅を見ると、小さくとも太く、若々しい幹には、力強さと活力がみなぎっている。空に向かってまっすぐに伸びる枝には、何にでも真剣で、直截な若者のエネルギーが表現されていると言えるだろうか。また、ふっくらとした深紅の花弁は、あでやかで生命力がある。そこには、若い頃の光琳が持っていたすべてが描かれている。大店の御曹司としての栄光や、経済的に不自由のない暮らし、そして好きな絵を描く時の真剣な心などであろうか。

一方の白梅は、老いを示すような根元の瘤と、やせ細って屈曲した枝が老境を思わせる。薄く、繊細な白い花は、老いて気難しくなり、敏感すぎる気質を身につけてしまった光琳の自虐的な一面と、卓越した技と細心の仕事で究極の美を表現した自信、両者を写し出しているのかもしれない。そこには、己を知った光琳の、芸術家としての成熟が示されていると言えるだろう。

さて、中央に流れる暗い川は、緩やかに蛇行しながら先細っていくのか、それとも、小さな流れが大河となって海に注ぐさまを表したのか。いずれにしても、光琳の紆余曲折の人生を示唆しているように見える。

しばらく絵の前に座っていると、光琳がつぶやいているような気がした。『わしが思うに、人生ってのは、まあこんなものじゃないかね。』この作品は、光琳が最晩年に描いたものである。

尾形光琳のその他の作品

『風神雷神図屏風』東京国立博物館

『燕子花図屏風』東京根津美術館

『八ツ橋図屏風』メトロポリタン美術館

さて、光琳の『風神雷神図屏風』は、風神が天上で風を起こし、雷神が地上に雷を落とそうとしている金屏風図である。両神とも楽しそうに仕事をしているのが印象的だ。原図は宗達の『風神雷神図屏風』であり、光琳以下、酒井抱一、鈴木其一なども模写を残している。異なる時代に生きた4人の絵師が琳派と呼ばれる理由は、この模写を通じて学ぶスタイルにある。

琳派の匠シリーズについて

琳派とは、16世紀に始まった日本絵画の流れを指しますが、当時からそう呼ばれていたわけではなく、今日振り返って付けられた名称です。大胆な構図、装飾的かつ繊細な筆遣い、余白の美を追求する表現様式が、琳派の画家たちに共通しているようです。琳派の作家は、私淑という形で、過去の巨匠の作品に学び、そこから独自の美意識へと到達していく傾向にあります。このシリーズでは、琳派として紹介されることの多い5人の匠について、順次ご紹介していきます。

1本阿弥光悦(ほんあみこうえつ1558-1637):京都 光悦寺

2俵屋宗達(たわらやそうたつ1570?-不明):京都 建仁寺

3尾形光琳(おがたこうりん1658-1716):熱海 MOA美術館

4酒井抱一(さかいほういつ1761-1828):東京 向島百花園

5鈴木其一(すずききいつ 1796-1858):朝顔への情熱

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