鎌倉 建長寺の春

波涛を越えた中国僧 2 蘭渓道隆

鎌倉建長寺は、1253(建長5)年に創建された禅の専修道場である。鎌倉に武家政権が誕生して50年、政権の安定とともに、鎌倉の都市機能は次第に整いつつあった。この頃、南宋(1127-1279)との民間貿易により、九州博多を拠点として、陶磁器や絹織物、書籍、文具、香料などが日本に輸入され、その貿易船に便乗して、多くの渡来僧や商人たちが来日した。発達した貨幣経済を基盤として、商工業、学問、芸術など、高いレベルに達していた南宋の文化を、鎌倉幕府は積極的に取り入れようとしていたのである。その鎌倉の中心的寺院が建長寺であった。境内では宋の言葉が飛び交い、唐物があふれて、さながら日本の中の異国の風情であったという。宋人僧も日本人僧もともに建長寺で学び、また鎌倉武士やその夫人たちまでもがこぞって参禅した。建長寺は、中国禅と文化を学ぶ教育施設であったと同時に、時代の最先端を行く、文化発信基地の役目も果たしていたようだ。

桜咲く春

春、建長寺の総門を入ると、聳え立つ三門まで、桜並木の参道が続く。満開の頃は、麗しい芳香に包まれて、まるで桜のトンネルをくぐり抜けるような気分になる。だが散り始めもよい。無数の花びらが風に舞い、なおいっそう華やかとなる。そして足下には、淡い桃色の道ができる。三門を過ぎて振り返れば、門が額縁のように桜の道を切り取って、一幅の絵画のごとく美しい。

蘭渓道隆

1213(建保元)年、南宋の西蜀(現・四川省)に生まれた蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)は、13歳で剃髪し、修行、卦錫を重ねた。その後、縁あって、未だ真の禅が伝えられていないと聞く日本に、東渡伝法の志を抱いて渡来した。1246(寛元4)年、蘭渓道隆とその弟子たち一行は、まず博多の円覚寺に入った。その後京に上り、宋で面識のあった京都泉涌寺の僧・月翁智鏡(げっとうちきょう)の元に寓居したが、月翁の勧めで、鎌倉寿福寺の大歇禅師に参じた。これを聞きつけた鎌倉幕府の五代執権、北条時頼は、蘭渓道隆を常楽寺に移し、その教えを受けるようになった。

当時の日本の仏教は、貴族のための加持祈祷が中心で、殺生を生業とする武家の苦しみを救い、その精神的支柱となりうるような教えではなかった。しかも、飲酒や武装、男色など、官寺の僧侶の破戒は日常化していた。500年前に、鑑真(このシリーズ1に登場)が命がけで伝えた戒律はすでに形骸化し、末法思想が蔓延していたのである。時頼は、戒律を重んじ、厳しく禅行に励むことを説く蘭渓道隆の教えに感銘を受け、建長寺一世に招じた。

法語規則

建長寺が草創間もない頃、蘭渓道隆は、学僧たちの気が緩んでいるのを見て、「法語規則」を掲示して戒めた。その日はちょうど、沐浴の日(毎月の四、九日)にあたり、日々の厳しい修行の中で、学僧らが心待ちにしていたわずかな楽しみの日でもあった。蘭渓道隆が掲示したこの時の墨跡が、現在は国宝として、鎌倉国宝館に寄託されている。「法語規則」は、僧侶の日常生活や作法、罰則などを示した墨跡である。小学生に説くような稚拙な内容にも思えるが、それだけ寺内の規範が乱れていたのかもしれない。一方で、蘭渓道隆の書としての評価は極めて高い。終始一貫した筆脈には確固たる意志が貫かれ、禅僧の脱俗した精神性が表れているという。

では、その概略を見てみたい。

「法語」

1 仏道を実践するというのは、自発的な発心であり、他人から催促、鞭撻されるようであってはならない。

2 修行に励み、虚しく時を過ごすことのないように。

3 文字に執着し、学問ばかりしていても悟りには至らない。

4 日常、少々不機嫌なことが起こっただけで、怒り、罵りをするようではいけない。

5 沐浴、放暇の日でも、放逸したり怠けたりしてはならない。

「規則」

1 夕刻より深夜11時までと、午前2時から6時までは座禅をすること。

2 僧堂に戻らない者は、禅院から放逐する。

3 午前3時40分には洗面桶を片付け、4時20分後に洗面する者は、油一斤を罰する。

4 午後6時から10時までは、向火(火に当たって暖をとること)は許さない。

5 午後10時20分に火を埋める。もしこれをかき立てる者がいれば、罰油二斤を課する。

6 午前2時20分から4時40分までは向火を許さない。これを犯した者には罰油二斤を課する。

7 火のまわりや僧堂では話をしてはいけない。これを犯した者には罰油一斤を課する。

8 足音を立てて歩いたり、乱暴に御簾を巻き上げたりした者には、罰油一斤を課する。

罰油とは、睡眠時間を削って座禅をする罰則で、一斤または二斤の油が燃え尽きるまで行う(一斤で二時間とも言われる)ことが課されていた。つまり、規則を破った者は、眠る時間も、食事をとる時間もなく、ただひたすら座禅をしなければならなかったのだ。実際に、どの程度この罰則が適用されたかは明らかでないが、蘭渓道隆は、僧侶たちに禅の道の厳しさを諭す必要があったのであろう。

蘭渓道隆の遺偈

1278(弘安元)年、蘭渓道隆は、30有余年を過ごした日本の地で示寂した。

遺偈『用翳睛術、三十余年、打翻筋斗、地転天旋』には、蘭渓道隆の少々くだけた一面が表現されている。ニュアンスをとりながら意訳すれば、こんな感じだろうか。

「禅の核心を覆い隠しながら、学人に接して三十余年、さて、そろそろ宙返りをして天地逆転、あちらへ行くとするか。」

仏殿前のビャクシンの巨木は、蘭渓道隆が宋から持ち込んだ種から育ったもので、現在は、わずかに7株が残っている。また、方丈奥の庭園は、度々の地震や火災によって改修されているものの、蘭渓道隆の作庭した地割と意匠の原形が残されている。宋の純粋禅を日本に根付かせるために専心努力し、日本の仏教界に喝を入れた蘭渓道隆。美しく掃き清められた建長寺の境内を歩きながら、蘭渓道隆という禅僧の確固たる道心に触れて、身が引き締まる思いがした。

シリーズ:波涛を越えた中国僧

このシリーズでは、大陸から日本に渡ることが命懸けだった時代、仏教を通して、日本の文化形成に多大なる影響を及ぼした6人の中国僧をご紹介していきます。

1 鑑真和上(がんじんわじょう668-763): 奈良 唐招提寺

2 蘭渓道隆(らんけいどうりゅう1213-1278):鎌倉 建長寺

3 無学祖元(むがくそげん1226-1286):鎌倉 円覚寺

4 一山一寧(いっさんいちねい1247-1317):伊豆 修善寺

5 隠元隆琦(いんげんりゅうき1592-1673):宇治 萬福寺

6 東皐心越(とうこうしんえつ1639-1696):栃木 大雄寺

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