東京 向島百花園

琳派の匠 4  酒井抱一

文化文政(1804-1829)の時代と言えば、江戸で歌麿や写楽、広重の錦絵が流行し、十返舎一九の滑稽本が好まれた町人文化の華やかなりし頃である。江戸庶民は、浮き世を風刺する川柳をもてはやし、ほおずきや変わり朝顔などの草花を愛した。季節ごとの草花市は、町のあちらこちらで頻繁に開催されていたようだ。そんな江戸っ子たちを喜ばせたのが、向島百花園だった。骨董商の佐原鞠塢(さはらきくう)が、交友のあった江戸の文人たちの協力を得て造った初めての民営植物園である。この植物園の命名者で、資金援助を惜しまなかったサムライ絵師が、江戸琳派の創設者と言われる酒井抱一である。抱一は、譜代大名の愛媛藩藩主・酒井忠恭(さかいただずみ)の孫として江戸で生まれるが、後に出家して、文人としての道を歩んだ。抱一は、尾形光琳を敬愛し、私淑という形でその技法を学び、独自の芸術性を切り開いていく。光琳の力強く華やかな表現に対し、抱一は繊細で可憐な草花を対象とした静の世界を描いた。

向島百花園

1805(文化2)年、草花鑑賞のための庭園として、向島百花園が造営された。当初は360本の梅の木が中心であったが、後に万葉集をはじめとする、日本の古典に詠まれた様々な植物が収集されて、四季を通じて花を楽しめる庭園となった。抱一は百花に魁けて咲く梅にちなみ、この庭園を『百花園』と命名した。

雨上がりの初秋に百花園を訪れると、そよ風に揺れる葉の上で、雨粒がきらめいていた。葛の葉は赤く色づき始め、桔梗や生姜の花がしとやかに咲いていた。萩で仕立てた花のトンネルは大変な人気で、入り口も出口もたくさんの人でにぎわっていた。野に咲く小さな草花は、今も昔も江戸っ子の心をとらえているようだ。

酒井抱一

酒井抱一は、1761(宝暦11)年、姫路藩の大名家に、次男として生まれた。7歳のときに父を、11歳で母を、そして12歳の時に、頼りにしていた祖父までも亡くし、家督を継いだ長兄忠似(ただざね)の仮養子となった。そして30歳の頃、仮養子を解消して出家。市井の隠者を気取るようになる。出家の背景には、兄の嫡男に酒井家の家督を継がせるという名目があったらしい。そのため、出家とは形式ばかりで、抱一は生涯吉原通いを続け、贔屓の遊女も数多くいたようだ。後に活動の拠点となる雨華菴(うげあん)では、身請けした遊女香川と同居し、抱一の描いた軸に小鸞女史(しょうらんじょし)となった香川が、賛を寄せた作品がいくつも存在する。

1790(寛政2)年頃から、抱一は本格的に句稿を執筆し、絵事についても、草花絵、仏画、器物や着物などの下絵、光琳の研究など、多彩な活動を行った。俳句と画業とは、ともに抱一の感性を両輪で支える表現形態だったと思われる。

ところで、酒井家には光琳の作品が数多く残されており、抱一はそれを間近に見ることができる幸運な幼少期を送ったようだ。酒井家は、光琳江戸滞在中の後援者だったという。抱一と光琳の生きた時代には、約100年の隔たりがあるが、抱一にとって光琳は偉大な絵の師匠だったのである。

1821(文政4)年、抱一の傑作『夏秋図屏風』が生まれる。これは将軍の父にあたる一橋治済(ひとつばしはるさだ)の注文で、光琳の『風神雷神図屏風』(俵屋宗達のオリジナルを模写したもの)の裏に描いた作品である。抱一にとって、己の技量を試すまたとないチャンスだった。抱一は果たして、光琳の風神雷神に対し、屏風の裏側にどんなメッセージを残したのだろうか。

『夏秋草図屏風』(東京国立博物館蔵

屏風の右双は、晩夏の雨に打たれてうなだれる淡い桃色の昼顔と白百合。右上には、にわかに水かさを増した小川。左双では雨が上がり、葉を翻す蔦紅葉と大きく揺れるすすきの穂が、嵐の後の強風を想像させる。ここに夏から秋へと、季節が巡っていくさまが描かれている。

前述したように、この屏風の表絵は光琳の風神雷神図である。雷神の裏に、抱一は雨に打たれる夏草を描き、風神の裏に、風に揺れる秋草を描いた。風神雷神は天上で、この世の人知を越えた働きをなす。光琳は目に見えぬ天界の様子を、まばゆいばかりの金地に表した。対して抱一は、自分の足が踏みしめている地上の姿を描いた。時の流れや花の移ろい、天候の変化と、めぐる季節や絶え間ない生命の循環を、静寂な銀色の地にしたためたのだ。繊細な筆致と穏やかな画面は、見る者の心を落ち着かせる。これが、還暦を迎えた抱一の、絵師としての到達点だったのかもしれない。

現在は、保存上の理由で、二枚の絵は別々に表装し直されている。抱一の『夏秋草図』は、東京国立博物館本館にて、秋の特別公開で毎年2週間だけ展示される(スケジュールはこちら)。

琳派の匠シリーズについて

琳派とは、16世紀に始まった日本絵画の流れを指しますが、当時からそう呼ばれていたわけではなく、今日振り返って付けられた名称です。大胆な構図、装飾的かつ繊細な筆遣い、余白の美を追求する表現様式が、琳派の画家たちに共通しているようです。琳派の作家は、私淑という形で、過去の巨匠の作品に学び、そこから独自の美意識へと到達していく傾向にあります。このシリーズでは、琳派として紹介されることの多い5人の匠について、順次ご紹介していきます。

1本阿弥光悦(ほんあみこうえつ1558-1637):京都 光悦寺

2俵屋宗達(たわらやそうたつ1570?-不明):京都 建仁寺

3尾形光琳(おがたこうりん1658-1716):熱海 MOA美術館

4酒井抱一(さかいほういつ1761-1828)::東京 向島百花園

5鈴木其一(すずききいつ 1796-1858):朝顔への情熱

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