京都 苔寺(西芳寺)

苔に覆われた修禅の庭

境内一面が苔に覆われていることから、通称・苔寺(こけでら)と呼ばれる西芳寺(さいほうじ)は、アップル創始者の一人だったスティーブ・ジョブズや、ハリウッド俳優のリチャード・ギアが、何度も足を運んだ京都の古寺である。だが、行基によって創建されたとされる天平年間(729-749)、そこはまだ、苔むす寺ではなかった。室町時代には、池泉回遊式庭園と枯山水からなる美しい二つの庭に、光厳天皇や室町幕府の将軍たち(初代・足利尊氏、三代・足利義満、八代・足利義政)がこぞって訪れた。後に西芳寺をモデルとして、義満は金閣寺を、義政は銀閣寺を造営する。しかし、そんな華やかな時代を経た後、江戸時代の西芳寺は、度々の洪水により荒廃し、次第に苔に覆われる寺になっていった。

苔の世界

西芳寺の庭は、いわゆる苔庭ではない。自然と人とが、共同で作り上げてきた苔の世界そのものである。寺地は桂川の支流が蛇行する屈曲点にあるため、年間を通して湿気が溜まりやすく、平均湿度は95%を越えている。厚さ10cmにもなる苔は、数百年の歳月を重ねて、今の形になったという。一方、光合成をして成長する苔には、適度な日光も必要である。苔の生育を助けるために、西芳寺の僧侶と庭師たちは、毎日欠かさず苔の上に積もる枯れ葉を掃き続けてきた。もし掃除を怠り、枯れ葉をそのままにしておいたなら、これほど美しい苔は育たなかったであろう。

苔に覆われる前

禅僧・夢窓疎石(1275-1351)が西芳寺に入寺したのは1339(暦応2)年のことであった。夢窓疎石はここを禅寺に改め、古墳の巨石が残る穢土寺と、平地にあった西方寺を合わせて西芳寺とした。夢窓疎石は、西芳寺を勉学と修行の場として再興するとともに、上下二段の修禅の庭を作った。上段の庭は巨石を利用した枯山水として、滝と滝壺、そこから流れ出る水を石組みだけで表現した。僧侶たちは山上にある指東庵(しとうあん)に座り、この枯山水と向かい合って座禅を組んだ。

下段の庭は心字池を中心とする池泉回遊式庭園であった。その景観を再現するCG映像が、2013年1月に放送されたNHKの番組『奇跡の庭 京都・苔寺』の中で紹介された。室町時代の西芳寺庭園には、池辺に銀閣寺の瑠璃殿に似た二層の楼閣があり、外回廊が庭を取り囲み、美しい白砂で覆われた二つの中島が池に浮かんでいた。そして、その池には楼造りの太鼓橋が架かる優雅な庭だったのである。春にはしだれ桜の巨木、夏には池に咲く蓮の花、秋には一面の紅葉が、訪れる人々の目を楽しませたという(京都造形大学・尼崎博正教授監修)。

生命の輪

その後、西芳寺は応仁の乱(1467-1477)で荒廃する。さらに、幾度となく河川氾濫の被害を受けた。1485(文明17)年、1568(永禄11)年、さらに寛永年間(1624-1645)に、洪水が西芳寺を襲った。その度に修復と再建がなされたが、元禄年間(1688-1704)の水害の後、地元住民による修復がなされたという記事を最後に、西芳寺の記録が途絶える。

そして100年後、江戸時代中期頃に、西芳寺の境内は苔に覆われ始めたようだ。現在までに、寺地には120種以上の苔が確認されている。西芳寺の庭園は、季節の花が咲き乱れる明るい庭から、多種類の苔が織りなす静かな庭へと変貌したのである。西芳寺の住職は言う。苔寺全体が大きな生命体であると。西芳寺の景観は大きな変化を遂げたかもしれないが、苔も草木も、ここに住む僧たちをも含めて、一つの生命としてつながっているのだ。

参拝申込

西芳寺参拝には、往復はがきによる事前申込が必要である(詳細はこちら)。

このシリーズについて

1339(延元4 /暦応2)年、夢窓疎石は西芳寺に、上下二段の構成を持つ庭を築造しました。下段の優雅な池泉回遊式庭園と上段の厳しい枯山水は、当時はすばらしい対比を見せていたことでしょう。700年近い歳月は、その庭を大きく変貌させました。今では美しい苔が一面を覆い、この庭の新たな魅力を引き出しているようです。

このシリーズでは、上下二段の構成を持つ3つの庭を巡り、それぞれが作り出す美的空間を鑑賞していきたいと思います。 

1 西芳寺禅僧・夢窓疎石(1275-1351)が築庭した「苔に覆われた修禅の庭」

2 鹿苑寺金閣:足利義満(1358-1408)が監修した「金の楼閣と饗応の庭」

3 慈照寺銀閣:足利義政(1436-1490)が監修した「銀の楼閣と月見の庭」

詳細情報

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