ゲーテ座記念 岩崎ミュージアム

異人たちの足跡 15 M. J. B. ノールトフーク・ヘフト 

130年前のゲーテ座は、横浜居留地に住む外国人のための娯楽施設だった。日本の中で、最も早く西洋の演劇やオペラ、音楽、手品、バレエなどが演じられたゲーテ座。かつて日本の若き作家たちは、競ってゲーテ座のチケットを買い求めた。小山内薫、谷崎潤一郎、芥川龍之介、大佛次郎など枚挙に暇がない。

1885(明治18)年、横浜山手の地に建てられたゲーテ座は、1923(大正12)年の関東大震災で被災し、跡形もなく消滅した。しかし今、その土地にはゲーテ座記念・岩崎ミュージアムが建ち、古き良き時代の横浜を再現している。

本町通りゲーテ座劇場

オランダ人貿易商のマリアヌス・ヨハネス・ベンジャミン・ノールトフーク・ヘフト(MJB Noordhoek Hegt)は、初期の横浜で成功した事業家である。山下居留地68番にオフィスを構え、小売業の他に、英字新聞ジャパン・ガゼットの創刊に参画したり、ビール醸造所の経営を行ったりしていた。そのヘフトが居留民のために、オフィスの裏に小さなホールを建設したのが1866(慶応2)年である。当時居留地は日本人社会とは完全に隔絶されており、容易に居留地の外に出ることはできなかった。その上、一歩外に出れば、外国人は誰もが命の危険にさらされる状況にあった。攘夷運動家たちは時と場所を選ばず外国人襲撃を行ったからである。常日頃緊張に晒されていた居留民には、心を癒す、何らかの娯楽が必要だった。そうした中、居留民の有志が結成したアマチュア劇団(ADC)のために、ヘフトはホールを貸し出した。ヘフトのホールは盛況で、2年後にはプロの劇団が来日して興行するようになった。シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』のバルコニーの場面が上演されたのは1869(明治3)年11月のことである。間もなくそこが手狭になったため、ヘフトは同じ場所に、石造り約200席を擁する本町通りゲーテ座劇場を新築した(The Gaiety Theatre:娯楽劇場)。

ところが2年後、ADCは賃貸料を払えなくなって解散してしまう。それによってゲーテ座は早くも閉鎖の危機に面した。そこで、W.H.スミスがこの問題の解決を図るために集会を開いた。様々な議論の結果、居留民の集会や教会の行事などに使うパブリック・ホールとしてゲーテ座を使用することで意見がまとまった。その後、1885(明治18)年に山手居留地に新劇場が建てられるまで、ヘフトのゲーテ座は、居留民たちによってパブリック・ホールとして運営された。

MJBノールトフーク・ヘフト

1821(文政4)年、ヘフトはオランダ東部の町デルデンに生まれた。(実際の姓はノールトフーク・ヘフトであるが、日本では、短くヘフトまたはヘキトと名乗っていたため、ヘフトと呼ぶことにする。)ヘフトは一族の伝統に従って、船乗りとなり、1852(嘉永5)年、30歳の時に商船の船長に昇進した。そしてスタッド・エンスケーデ号を所有すると、英国やオランダと、インド、オーストラリア、日本を結ぶ輸送路を往来して貿易を行い、1865(慶応元)年頃にはヘフト商会を設立する。この頃からヘフトの活躍はビジネスの枠を超えて多岐に渡った。議会参事を勤めたり、山手と元町を結ぶ道路を建設したり、前出の劇場を作ったり、ビール醸造所を開設したりと、とにかく忙しく立ち働いた。しかしヘフトが特に力を注いだのは、実は地域の消防活動であった。

ヘフトの消防活動

イラストレイテッド・ロンドン・ニュースの特派員チャールズ・ワーグマンは、横浜で独自に出版していた地域雑誌『ジャパン・パンチ』にヘフトの風刺画を載せている。それを見ると、ヘフトの消防活動への情熱を感じることができる。自ら消火ポンプを考案したり、自費で消防車を輸入して常に自宅前に待機させておいたり、火事が起きる前の準備も万端ながら、一度火事が起これば、すぐに駆けつけて消火にあたるなど、とにかく消防活動に熱心であった。

1866(慶応2)年11月26日の『豚屋の火事(火元は関内の豚肉営業鉄五郎方)』では、火は14時間もの間燃え続け、横浜の三分の二を焼き尽くしたといわれる。この火事で写真家のフェリーチェ・ベアトはスタジオを失い、彼の貴重なネガは灰燼に帰した。イギリス外交官アーネスト・サトウも所持品を焼かれたが、彼はこのとき、積極的に消火活動に加わったことが記録されている。もちろんヘフトは誰よりも率先して消火に当たった。鎮火後、居留民一同、および横浜市はヘフトに感謝状を送った。

岩崎ミュージアム

1980(昭和55)年、山手ゲーテ座の跡地に小さなミュージアムが新設されることになった。1930(昭和5)年に横浜に設立された服飾専門学校、岩崎学園が、50周年記念事業として企画した事業であった。基礎工事が始まると、関東大震災で埋もれてしまった建物の一部と思われるレンガが、地中から次々に出土した。これらは1870(明治3)年から1880(明治13)年頃に山手で生産されていたレンガであると判明し、現在、ミュージアム内に展示されている。いずれもフランス人ジェラールのレンガ工場で生産されたもので、当時の横浜近辺で建てられた西洋建築には、相当数用いられていたようだ。イタリア系イギリス人ベアトの写したゲーテ座の写真を見ると、それらがゲーテ座の外壁に使われていたものと一致しているのがわかる。

岩崎ミュージアムには服飾関係の展示室ゲーテ座ホールがある。展示室は、アール・ヌーヴォーのガラス工芸品やコスメティックラベル、19世紀のヨーロッパファッションが常設展示されている。山手ゲーテ座が華やかなりし頃、ヨーロッパではバッスルスタイルのドレスが流行していた。スカートの中にパットを入れて、腰の辺りを膨らませるスタイルである。当時はバッスルスタイルで着飾った貴婦人たちが、パートナーにエスコートされてゲーテ座に集まったことだろう。ミュージアムでは、復元したヨーロッパのドレスを試着して写真を撮ることもできる。ホールは100席で、サロンコンサートや定期演奏会などを開催している。

ヘフトの家族

ヘフトは1873(明治6)年に一度離日したが、1879(明治12)年に再来日し、その後は1894(明治27)年に没するまで横浜に住んだ。ヘフトの最初の妻シャーロット・ブレイズは娘を生むと間もなく肺炎で亡くなった。二度目の妻ヘンドリカ・ビネカンプは、日本に初めてペルシャ猫をもたらした女性である。夫の死後も横浜に留まり、1907(明治40)年に82才で没した。ヘフトの娘のうち一人は、日本郵船や三菱などで船長を務め、後に実業家となったイギリス人、ウィルソン・ウォーカーと結婚したシャーロット。もう一人の娘マリアンヌは、後にアメリカに移住してペンシルベニア大学教授となるオカジマ・キンヤと結婚した。マリアンヌは1926(大正15)年にシアトルで没したが、その遺灰は海を渡って横浜に戻り、ヘフトの墓のある横浜外国人墓地に収められた。

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