福井の藤島神社

悲劇の天皇の藩屏、新田義貞を祀る神社

福井市の足羽山山腹に鎮座する藤島神社は、皇室の悲劇の藩屏、新田義貞 (1301-1338) を祭神とする神社だ。


背景
新田義貞は鎌倉時代に勇名を馳せた武将の一人だ。後醍醐天皇を助け鎌倉幕府転覆に尽力、建武の新政に貢献した。同じく鎌倉幕府転覆の立役者の一人、足利尊氏が、後に後醍醐天皇に反旗を翻し、武家による政権、室町幕府を開幕した時も、義貞は後醍醐天皇の元に留まり足利軍と対峙した。新田軍は現在の福井県敦賀市にある金ヶ崎城で死闘を繰り広げ、義貞は落城寸前の金ヶ崎城を落ち延びた後、現在の福井県南越前町にある杣山城 ( そまやまじょう ) へ入城し (1337)、 軍を立て直した。

新田義貞の死
藤島の戦いで、義貞は馬の下敷きになり身動きできない状態に陥いる。動けない義貞は敵射手の格好の的となり、そんな義貞の眉間に敵の矢が命中した。止めを刺される、もしくは敵に捕縛される前に、義貞は自らの喉笛をかっ切り自害して果てる (1338)。現在の福井市にある燈明寺畷 ( とうみょうじつづれ ) の水田での出来事だ。

藤島神社創設とその意義
新田義貞の死から約500年後の明治時代初期、後醍醐天皇に忠誠を尽くした義貞と他の武将たちの名誉が回復された。1876年、新田義貞を祭神とする藤島神社が建立され、1882年には、義貞に正一位 ( しょういちい: 諸王及び人臣における位階の最高位、従一位の上 ) が贈位される。この正一位贈位の重要性については少し説明が必要だろう。

日本の長い歴史の中で天皇は神として崇められ、その敵「賊軍」となることは最大の不名誉だった。後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏は、死に至るまで悪夢に悩まされ続けたという。後醍醐天皇の薨去に際し尊氏は、京都に天龍寺を建立し、その菩提を厚く弔った。彼なりの贖罪だ。幕末、徳川幕府最後の将軍、徳川慶喜が、ろくに戦いもせず維新軍に降伏した理由の一つは、何としても「賊軍」の汚名を逃れたかったからだ、とも言われている。

徳川方で維新軍と最後まで戦った会津藩は、謂わば徳川幕府のスケープゴートとなり、「賊軍」の汚名を着せられた。1928年 ( 賊軍のレッテルを貼られてから60年後 )、会津藩第9代藩主、松平容保の孫娘が宮家に嫁いだ際、会津藩は長年の汚名を返上し名誉を回復した。

会津の人々は提灯行列を作り何日間も町を練り歩いて狂喜乱舞したという。このような歴史を振り返ると、新田義貞の名誉回復が彼自身、そして彼と共に戦った人々の子孫やファンにとり、どれほど重要な事だったかお分かり頂けるだろう。

今日の藤島神社
1959年、藤島神社は現在地に遷座した。興味深いことに、現在この神社の宮司を務めるのは、新田義貞の嫡系子孫の一人、新田義和 ( よしより ) 氏だ。

今回私はその新田氏に直接お会いして話を伺うという幸運に恵まれた。福井に来る以前新田氏は、奈良春日大社の神職をされていたそうだ。6年前藤島神社の宮司職に抜擢され福井にやって来られた。新田氏によれば「青天の霹靂」(せいてんのへきれき)の出来事だったらしい。ご自身の先祖である新田義貞を祀る藤島神社の宮司を務める、この天の配剤を名誉に思うと共に、その重責には身が震える思いだ、とのことだった。

拝殿内には「官軍」の象徴である「錦の御旗」が吊り下げられていた。テレビドラマや映画でしか見た事のない「錦の御旗」を掲げた神社に、その御旗の下で戦ったであろう歴史上の人物、新田義貞の本物の御子孫と共に立ち、彼と喋っている・・・何やら夢でも見ているのではないかと、頬っぺたをつねりたくなった!

福井の新田義貞シリーズ
1. 敦賀の気比神宮: 福井
2. 華麗なる気比神宮: 敦賀
3. 敦賀の金前寺: 福井
4. 松尾芭蕉と敦賀の金前寺
5. 敦賀の金ヶ崎宮: 福井
6. 激動の金ヶ崎城跡
7. 福井の藤島神社
8. 美しき藤島神社

詳細情報

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