京都 大覚寺

回廊巡りを楽しむ京の寺 2

京都北西の郊外にある大覚寺は、平安時代初期に造られた嵯峨天皇(786-832)の離宮を前身とすることから、その建築様式に、御所のたたずまいを色濃く残している。格調高い寝殿造りの居室や、宸殿や御影堂前の白砂の庭、そして何よりも、迷路のように複雑な回廊が、縦横無尽に建物をつなぐその雅な美しさ。嵯峨天皇の離宮は876(貞観18)年に大覚寺となり、幕末まで天皇や皇族方が住職を務めた門跡寺院であった。

回遊順路

玄関の手前、左手に嵯峨御流の生け花が飾られている。嵯峨天皇が、大沢池に浮かぶ菊島で花を摘み、それを生けたことから華道・嵯峨御流が始まったとされ、大覚寺には今も家元(総司所)がある。玄関を入れば、いよいよ回廊巡りの始まりだ。順路に従って進むと、正寝殿、宸殿、御影堂と、王朝絵巻の世界が展開する。狩野探幽の障壁画や蒔絵に縁取られた襖絵など、豪華な装飾が室内を彩っている。回廊は部屋に沿って幾度も曲がり、白砂の庭を取り囲むように進んで五大堂(本堂)に至る。五大堂の東には、大沢池に張り出すようにぬれ縁が設えてあり、その眺望はとてもすばらしい。

ここまでが南側半分の回廊である。五大堂の奥を通って、北側の回廊に進もう。小さなせせらぎと樹木の間を縫うように回廊を進み、仏具や工芸品などを展示する霊宝館や、歴代天皇が写経した般若心経を納めた勅封心経殿、阿弥陀如来像が祀られている赤い堂宇の霊明殿を見る。時々、庭の向こうを歩いていく人を見かけるが、回廊が複雑に入り組んでいるため、自分は次にどの辺りに出るのか想像がつかない。まるで、迷路にはまっているようで楽しかった。

嵯峨天皇と空海

嵯峨天皇は、平安遷都を挙行した桓武天皇(737-806)の第二皇子として生まれた。809(大同4)年、兄の退位により即位したが、この頃、飢饉に加えて疫病が全国に蔓延していた。天皇はこの事態に憂慮し、唐で密教の伝法阿闍梨の灌頂を受けた空海に相談した。空海はそれに対し、般若心経写経の霊力について言上した。そこで天皇が、一字三礼の誠を尽くして、紺紙金泥に般若心経を浄書したところ、たちまち霊験が現れ、疫病は退散したという。嵯峨天皇の浄書は、今も勅封心経殿に奉安されている。

空海は日本歴代の傑僧であるとともに、能書家としても知られている。天下の三筆と言えば、この時代、嵯峨天皇、空海、橘逸勢(たちばなのはやなり)であった。ともに高い教養をもつ嵯峨天皇と空海は、この離宮で、しばしば書や詩文の談義、唐の話をするなどして過ごしたと伝えられている。

816(弘仁7)年、嵯峨天皇は空海に、高野山開創の勅許を与え、823(弘仁14)年には東寺を下賜した。

このシリーズについて

王朝文化に華やいだ平安時代(794-1185)、中央貴族たちは寝殿造の屋敷に住み、季節ごとに変わる庭の美しさを楽しみました。当時の建物には壁がなく、外周は蔀戸や妻戸のみで仕切られていたため、それらの戸をすべて開放すれば、室内と外の自然とが、たちまち一体となりました。建物をつなぐ回廊は、細い柱で屋根を支えた廊下です。ここもまた、雨や雪にぬれることなく、外の景色を楽しむことができるという点で、内外が一体化した空間でした。残念ながら往時の貴族屋敷は残っていませんが、平安時代に創建された寺院の中には、その面影を見ることができます。

このシリーズでは、内であって外でもある回廊に焦点を当てて、京都のお寺を訪ねてみたいと思います。

1 永観堂(853年創建):上へ上へと伸びていく垂直回廊

2 大覚寺(876年創建):どこまでも続く迷宮回廊

3 仁和寺(888年創建):鍵型の回廊と2つの庭

4 青蓮院(1150年創建):コの字型の回廊と3つの庭

回廊巡りを楽しんだ後は、禅宗とともに発達した枯山水の庭園や、武家の庭である回遊式庭園を訪ねてみてはいかがでしょうか。京都の作庭家シリーズでは、名庭と作庭家についてご紹介しています。

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