奈良 唐招提寺

波涛を越えた中国僧 1 鑑真和上

奈良・唐招提寺は、唐から招聘された高僧・鑑真によって、759(天平宝字3)年に開創された律宗総本山である。律宗は、主に戒律の研究と実践を行う宗派で、鑑真は唐において、律の第一人者であった。正式な仏教徒が受ける具足戒の授戒には、三師七証、すなわち最低10人の有資格者が儀式に立ち会わなければならなかった。しかし当時の日本にそのような高僧はそろわず、僧侶たちは自誓して仏門に入っていた。日本の仏教が、中国のスタンダードに追いつくためには、鑑真の来日と指導による正式な授戒が必須だったのである。

唐招提寺

南大門をくぐり、唐招提寺の境内に入ると、参道の先に美麗な金堂が現れる。その奥に講堂があることも、他の建物群があることも一切感じさせずに、安定感のある大きな建物が視界を独占するのだ。この建物にはほとんど壁がない。ギリシアのパルテノン神殿を思わせるような八本の太い列柱が、シンプルな寄せ棟造りの黒い大屋根を支えているだけだ。屋根の上の二つの鴟尾は、井上靖の『天平の甍』の最後の場面に、唐からの招来品、唐様の甍として登場する。金堂に近づくと、深い軒と想像以上に太い柱に驚くだろう。柱に手を触れれば、建物のぬくもりを感じる。円柱は徐々に先が細くなるエンタシスの構造をしており、日本ではこれを「粽(ちまき)」と呼ぶ。唐招提寺の開放感と威厳は、この金堂の美しさに集約されていると言っても過言ではないだろう。中央に本尊の盧遮那仏、左右に千手観音と薬師如来、それを取り巻く四天王たち。盧遮那仏の光背にはおびただしい数の仏が刻まれている。

金堂の奥は講堂である。鑑真もここで、学僧たちに講義を行ったのだろう。本尊・弥勒菩薩像の脇に持国・増長の二天像を配し、その両側に高座がある。一つは講師の、もう一つは読師(経文を読み上げる僧)の席である。僧たちは、床に円座を置き、座って聴講していたという。

境内西にある戒壇院は、文字通り戒を授ける場であった。1596(文禄5)年の地震で倒壊したが、再建された建物も1848(嘉永元)年の火災で消失した。以来、基壇部分だけを残して建物は再建に至らなかった。講堂の東側には、礼堂と東室という、細長い一続きの建物がある。以前は三面僧堂と言って、北と西にも同様の建物があり、僧侶たちの生活の場として使われていた。

鑑真は763(天平宝字7)年に唐招提寺で示寂した。墓所である開山御廟は境内の北東角にある。苔むした庭と木立に囲まれた静かな御廟は、八角形の柵で囲まれている。囲いの外側は一周できるようになっていて、小高い盛り土の上に宝篋印塔が置かれているのを、背面から見ることができる。

鑑真和上

鑑真は唐の垂拱4年、688(持統2)年に楊州に生まれた。14歳で出家した後、長安や洛陽の都で研鑽を積み、律僧として並ぶ者のない評価を得る。742(天宝元)年、楊州大明寺(たいめいじ)での講義中に、遣唐使船で日本から留学していた僧、栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)の訪問を受けた。この時二人は鑑真に、日本に仏教が伝来して200年経つが、未だ正式な授戒ができない現状を訴えた。そこで鑑真は弟子たちに、日本での戒律普及に努めようという者はいないかと問うが、誰も手を上げない。鑑真自らが渡日の決意をしたのは、この時だったという。その後、743(天平15)年の第一次渡航から749(天平勝宝元)年の第五次渡航まで、密告や遭難により、波涛を越えようとする鑑真の挑戦は失敗に終わった。その度に、貴重な経典や仏像、仏具、儀式用の法衣や法具、薬、書画書籍などが失われた。この間、鑑真の愛弟子祥彦(しょうげん)や、鑑真の日本招聘に尽くして来た栄叡が亡くなり、鑑真自身も視力を失った。しかし鑑真は諦めなかった。この困難の先の希望を見つめ続けたのだ。

そしてついに、753(天平勝宝5)年12月、鑑真一行は艱難辛苦を乗り越えて太宰府に到着した。この時、すでに鑑真は66歳、渡日の決意をしてから足掛け12年の月日が流れていた。熱烈な歓迎を受けた鑑真はまず、東大寺に入り大仏殿前において、聖武天皇、光明皇太后、孝謙天皇以下400余名に戒を授けた。その後、日本の将来を担う僧たちのために、戒律を実践していくための研修道場として、唐招提寺を創建した。僧侶が守るべき戒や、身につけるべき作法は数千に及ぶ。それをマスターし、体にしみ込ませるためには、最低でも5年の修養が必要である。鑑真はここに、滞在費を気にせず、集団生活の中で戒律の習得に集中するための、いわば私設学校を設立したのである。

国宝・鑑真和上座像は、鑑真が示寂する直前に製作されたといわれている。現在、開山堂では複製された像を拝観することができるが、残念ながら、オリジナルの像が持つ威厳と生彩は感じとれない。むしろオリジナル像の写真の方が、鑑真その人の人間性を表しているかのように思える。瞑目して坐禅を組む鑑真—その姿は静かで、清らかで、深い慈しみにあふれている。骨太な体躯からは不屈の精神性が滲み出て、日々の生活の中で、我々が忘れかけている何かを思い起こさせてくれる気がする。

シリーズ:波涛を越えた中国僧

このシリーズでは、大陸から日本に渡ることが命懸けだった時代に、荒波を越えて渡来し、仏教を通じ、日本の文化形成に多大なる影響を及ぼした、6人の中国僧をご紹介します。

1 鑑真和上(がんじんわじょう668-763: 奈良 唐招提寺

2 蘭渓道隆(らんけいどうりゅう1213-1278):鎌倉 建長寺

3 無学祖元(むがくそげん1226-1286):鎌倉 円覚寺

4 一山一寧(いっさんいちねい1247-1317):伊豆 修善寺

5 隠元隆琦(いんげんりゅうき1592-1673):宇治 萬福寺

6 東皐心越(とうこうしんえつ1639-1696):栃木 大雄寺

詳細情報

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