和田家は、代々、庄屋や番所役人などを務めた白川郷の有力者でした。その和田家の家屋、板蔵・稲架小屋などが、一部公開されており、江戸時代の有力村民の暮らしを垣間みることができます。
1573(天正元)年以来、和田家の当主は与右衛門という名前を継承して、家系を守ってきました。耕作できる土地が乏しい白川郷では、自給自足の暮らしの中で、現金収入の源として養蚕を行ってきました。養蚕には多くの人手が必要です。白川郷では分家を許さず、長男だけが結婚して家を継承し、次男以下の男子は、女性のもとへ通う妻問い婚を行いました。子どもができた場合は、将来の働き手として女性の家で大切に育てられました。
また、周囲から隔絶された白川郷では、黒色火薬の原料となる煙硝(焔硝)の製造が秘密裡に行われていました。和田家では、各家の床下で数年かけて作った煙硝を、取りまとめて取引する役割を担っていました。
合掌造りの家は、非常に合理的で機能的です。床下で煙硝作り、1階が生活の場、上階が養蚕の場として使われました。生活の場の中心には囲炉裏があり、煮炊きや暖をとるための火が、毎日屋根や柱をいぶして、家の構造を乾燥強化します。また、急勾配の屋根は、雪が滑り落ちやすいだけでなく、広い面積で太陽の熱をとらえて雪を溶かします。さらに、屋根は丸太を組んで木の蔓で縛っているだけの構造であり、大風や地震による揺れを逃がします。
ところで、豪雪地帯にある白川郷では、春になると、傷んだ屋根の一部を補修する作業が行われます。大規模な葺き替えは30-50年に一度とされていますが、最も傷みやすい屋根の結合部分の棟茅替えや、一部分だけ補修する差茅作業は、春になると適宜行われます。和田家の板蔵は、屋根の補修用の茅の保存や農具の保管の場として、現在も使用されています。
飛騨白川郷・ビデオシリーズ
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