後に「北政所 (きたのまんどころ)」、また「高台院」とも呼ばれたねねは、徳川家が幕府を開く (1603 - 1867) 以前、天下を統一した (1590 - 1598) 豊臣秀吉の正妻だ。ここで「妻」と言わず「正妻」と呼ぶには訳がある。当時の大名には側室が大勢おり、それら側室と正室を区別するためだ。女好きだった秀吉には、側室や愛人がなんと100人以上もいた。英雄色を好むとは、どうやら本当らしい。しかし数多く愛人がはべる中、ねねだけは別格だった。聡明で頼りがいがあり、しかも愛嬌のある正室の彼女に、秀吉は全幅の信頼を寄せた。秀吉の死後ねねは仏門に入り、京都に高台寺を建てて隠居、死んだ秀吉の御霊を供養しつつ余生を過ごす。
ここまで読んだだけでは何の変哲もない話だ。未亡人になった妻が尼になり、夫の菩提を弔う・・・当時高位にいた武家の女性の多くは、これをやっていた。しかしここ高台寺は、単に位高き女性の隠遁寺というだけでは済まない要素を秘めている。なぜなら、死んだ夫の元同僚、その後は忠臣、夫の死後敵となる徳川家康が、ねねのために建てた寺だからだ。 こんな話を聞けば、誰しも高台寺が単なる隠居寺だと思い続けるのは難しかろう。
ねねの決断
かいつまんで話せば、ねねは秀吉の死と共に豊臣の天下も終わったと悟った。まだ幼い秀吉の一人息子 (豊臣秀頼、側室淀君が産んだ子で、当時5歳) が天下を治められるとは到底思えなかった。そこでねねは家康を支援しようと決断する。家康に天下を譲り、なんとか豊臣家を徳川臣下の一大名として存続してもらう道を選んだのだ。そもそも秀吉の天下と言ったところで、織田信長の死後、秀吉が織田家から奪ったものではないか?
ねねの行動
秀吉が死んだ時、ねねは広壮な大阪城に居を構えていた。しかし秀吉が亡くなるや否や、自分の居所を家康に譲り渡してこう告げた、「京都に寺を建てて隠棲し、秀吉の菩提を弔いたい」と。もちろん秀吉の家来である家康に許可を得る必要はさらさらない。しかし敢えて家康を通す事により、彼を支持する意思を暗に表明したのだ。当時の家康は豊臣政権下の五大老の一人だった。最も強力な大老として、家康はねねの望みを執行した。また、ねねに年五千石という化粧料も与えた (現在の貨幣価値で約3億7,500万円)。この化粧料を一生受け取れるのだ! とはいえ、これは家康の所領から捻出された金ではない。秀吉の知行地や財産から割かれたものだ・・・さすが吝嗇で知られた家康、どこまでもケチである。
家康の行動
ねねの支持を得ることが如何に重要か、家康には痛いほど分かっていた。というのも秀吉の忠臣たちの中には、ねねの指図に従う者もいたからだ (豊臣家の中では主に2つの派閥があった。ねねを中心とする尾張派と、側室 淀君を中心とする近江派だ)。そこで家康はねねを丁重に扱い、自分の部下に命じて彼女の希望に従い高台寺を建立させた。ねねが高台寺に住いを移してからは、たびたび進物片手に彼女の元を訪れた。あまりに足繁く通うものだから、二人の間に何かあるのではないかと噂されるほどだった。1615年に家康が大阪城を攻め、豊臣家を完全に滅亡させた後も、徳川はねねの実家、浅野家を残し、浅野家は徳川幕府が終焉する明治維新 (1868) まで存続することになる。
ねねの余生
ねねは秀吉の忠臣たちに「徳川殿の命に従いなさい」と指示する。そして彼らは関ヶ原の戦いで家康側に付き、見事東軍を勝利へと導く。その後ねねは、秀吉の一人息子の母である側室 淀に対し、妥協して大阪城を明け渡すよう再三促す。しかし淀は聞く耳を持たなかった。ねねと違い政治に疎い側室の淀は、将来家康がわが子に天下を譲ると信じていた。いや、信じたかった。いずれにせよ、何たる愚かさか! 最終的に家康は、秀吉の忘れ形見、淀が産んだ子秀頼が当時建築していた方広寺の鐘に、何とも理不尽な、しかし緻密な計算に基づく因縁をつける。鐘に刻まれた文言が、自分への呪いだと言うのだ。そしてそれを口実に大阪城を攻めるに至る。この攻撃により、豊臣家はこの世から消えた。大阪城を焼き尽くした大阪の陣の後、家康は京都にある秀吉を神と祀った豊国神社を取り壊そうとしたが、ねねの懇願により社殿は残した。しかし豊国大明神の神号をはく奪、神社を廃絶した。ねねは1624年、享年76歳 (77歳とも言われる) でこの世を去る。1616年に死んだ家康より、8年長く生きた。
ねねはここ高台寺で、秀吉と共に築き上げた豊臣の天下の象徴、大阪城が燃え尽き、遠くの空が赤く染まるのを見たかもしれない。また彼女は、秀吉を祀った神社が朽ち果てるのを、同じ京にいながら見過ごさざるを得なかった。かつては黄金色に輝いた秀吉の天下が衰退、その後消滅するのを全てこの地で目撃したのだ・・・この美しい高台寺で、ねねが何を考え、感じながら生きたか、と思うと感慨深い。
(ねねの肖像画を除く全ての写真はラリー・ニフィング氏 撮影・提供による。)