丹波亀山城の歴史
本能寺の変とは、戦国時代の1582年、織田信長が家臣の明智光秀に殺された事件のことだ。1580年に完成したこの城は、織田信長の命を受けた明智光秀が丹波地方(京都府中部)を攻める際の軍事拠点として活躍した。しかし光秀は1582年、織田信長が泊まっていた京都の本能寺に攻めかかり、信長は自害した。なぜ光秀が信長に歯向かったのかは様々な説があり、分かっていない。その後、亀山城は豊臣秀吉の家臣である小早川秀秋によって修復され、徳川家康の時代にも改修され、大きな天守が建ったそうだ。明治時代になると城は荒れ果て、現在は宗教法人大本が城を買い取り、城跡を整備して現在に至っている。
城跡を歩く
亀岡駅を出て南にまっすぐ行くと明智光秀の像としゃちほこが2体ある。向こうには外堀が見え、この辺りは公園になっている。地元の方々にとって憩いの場のようだ。
城の中心部は宗教の聖地になっているため、入場するには受付で許可を得る必要があるので、少し勇気がいる。しかし入ってみると大きな石垣や内堀(万祥池と呼んでいる)が残っている。石垣には担当した場所が分かるように刻印がされている。
ちなみに丹波亀山城があるのは「亀岡市」だ。これは明治時代の初めに起こった戊辰戦争で、三重県の亀山藩は勝った明治政府側につき、丹波の亀山藩は負けた旧幕府軍についたため、「山」が「岡」に変わったのだ。
日本の歴史上「悪人」とされてしまいがちな明智光秀だが、亀岡や福知山など、素晴らしい城下町を作り、人々からは親しまれていたことも頭の片隅に置こう。