徳島: 板東俘虜収容所跡

第一次大戦中日本にやって来たドイツ人俘虜1,000人の楽園

俘虜収容所がパラダイスに成り得るなど、誰が想像できるだろう? もちろん私には思いもよらなかった、この収容所の話を聞くまでは・・・ 第一次世界大戦中の1917年から1920年にかけて、徳島鳴門市には「板東俘虜収容所」と呼ばれる戦争捕虜の収容所があった。ここにはドイツ人俘虜約1,000名が収容されていたが、なんと彼ら、自由に趣味を満喫していたというのだ。各自が持っていた技術を活かし、地元の人々を教育しながら親しく交わり、ビールを飲み、手製のソーセージやハムを食べ、パンを焼き、新聞を出版し、クラシック音楽を奏でて過ごした。要するに、収容所生活を大いに満喫したというわけだ!

私が初めにこの収容所の話を知ったきっかけは、2006年公開の日独映画、「バルトの楽園」 (髭面の男達の音楽の楽園、の意)だった。予告編を見て板東が、日本で最初にベートーベンの第九交響曲が演奏された地だと知り興味を持ったのだ。日本に住んでいる人なら、毎年ベートーベンの第九が全国津々浦々で演奏されることを知っているはずだ。私はよく何故だろう、と不思議に思っていたのだ。そして更に映画について調べると、なんと私の祖父の生まれた場所のすぐ近くではないか! (ちなみに祖父の名前は「板東」で、地名を表している) これは観ないわけにはいかない。そして映画を観た私は、この俘虜たちの楽園が、たった一人の人間、板東俘虜収容所所長、松江豊寿、の手で創り上げられたことを知った。彼は俘虜たちに、所謂「武士の情け」をもって接した。何故なら彼は元会津藩士だったからだ・・・

板東俘虜収容所所長、松江豊寿って誰だ?
松江は明治維新4年後の1872年、会津藩士の息子として生まれた。会津藩は明治維新の際徳川に加担し、革命軍に敗れた。明治維新後、会津藩士たちは青森の一木一草生えない不毛の地へと追いやられ、泥水をすする生活に耐えたが、松江の家族もその中にいた。彼は窮乏と屈辱の少年時代を過ごした。しかし会津藩士としての誇りを捨てず精励苦学し、20歳の時に陸軍士官学校へ入学した。その後1914年、彼が42歳の時に陸軍歩兵中佐に昇進し、1917年に板東俘虜収容所所長に任命される。賊軍とされた会津藩士だった彼には、ドイツ人俘虜たちの悔しさや屈辱が痛いほど分かった (彼の家族も彼自身も、同じ屈辱を舐めたのだ)。そのため松江は俘虜たちに敬意をもって接した。彼は俘虜達に行った訓示の中でこう述べている。「諸君は祖国を遠く離れた孤立無援の青島において、最後まで勇敢に戦った兵士である。しかし、利あらず日本軍に降伏したのである。それゆえに私は諸君の立場に同情を禁じ得ない。諸君は自らの名誉を汚すことなく行動して欲しい」と。

板東俘虜収容所におけるドイツ人俘虜達の生活
ここは収容所というより、ドイツ人街のような場所だった。所内には俘虜達が経営する約80の店舗が軒を連ね、家具や靴、アイスクリーム等が売られていた。また仕立て屋や理髪店、金属加工、配管工務店、大工等々を営む者もあった。所長の松江は収容所前に23,000㎡もの土地を借り受け、なんと広大な運動場まで作ってしまった。その中にはテニスコート4面、サッカー場、バレーボールコート、ホッケーやクリケットコート、体操場、レスリング・ボクシングジム、ボーリングレーンやビリヤード場まであった。そしてこれら運動施設は俘虜が結成したスポーツ委員会により運営された。それ以外にも図書館や集会所、病院、音楽や芝居を上演する劇場まであった。俘虜達は自分たちで編集した「ディ・バラッケ」という新聞を発行し、社会問題や軍事問題 (当時はまだ戦争中だった)、日本のニュース、収容所内のニュース、演劇、音楽、スポーツ、格言や詩、等々を掲載した。

楽団
収容所には主に2つの楽団があった。MAKオーケストラとMA吹奏楽団だ。彼等は2年半の間に34回演奏会を上演し、1918年6月1日に日本で初めてベートーベンの第九交響曲を演奏した。以来これを記念して、徳島の鳴門市では毎年6月の第一日曜日に第九を演奏し続けている。

日本におけるドイツ人俘虜たち
第一次世界大戦で俘虜になったドイツ人たちの多くは、職業軍人ではなく、当時中国の青島で住んでいた市民達による義勇兵だった。そのため多くの俘虜達が様々な技術を持っており、その技術を活かしてビジネスを開業したり地元の人々に教育することができた。例えば楽器の演奏方法、家畜の飼育方法、ウィスキーやビールの製造方法、パンの焼き方、等々だ。戦後、殆どの俘虜達は故郷ドイツに帰還したが、170名の元俘虜達が日本に残った。収容所で磨き上げた技術を利用し、精肉店、レストラン、ケーキ屋、酪農業、等を開業した。元ドイツ人俘虜が作った会社の中で有名なのが神戸のユーハイムだ。この会社は大阪と広島の収容所で暮らしたカール・ユーハイムにより設立された。他には栃木県のローマイヤなどがある。この会社を最初に創業したのは、元俘虜のアウグスト・ローマイヤだ。彼はロースハムを発明した人物だ。

最後に、松江所長の俘虜達に対する敬意と慈愛に満ちた配慮は、ドイツ人俘虜達を感動させた。これが契機となり、元俘虜達と鳴門市板東の人々との長期間にわたる交流が始まった。鳴門市はこの歴史的友好を記念して1972年、鳴門ドイツ館を設立した。

後記
正直に言えば、この話に関連して私はしばしの間、「もしも?!」と夢想に耽って楽しんでいた。上記した通り、私の祖父は鳴門市の板東出身である。彼の正確な生年月日は知らなかったが、私の祖父、目が大きく彫りの深い、少し外人臭い容貌なのだ。彼の息子たち (私の伯父達) も、がっしりした長身で、顔も少し西洋人っぽい。もしかして祖父の母親とドイツ人俘虜の間に「秘められた情事」でもあったのではなかろうか・・・と、一人夢想に耽ってわくわくしていたのだ。意を決して母に聞いてみると、「お祖父ちゃんは1915年生まれ」との回答・・・俘虜達が板東にやって来た2年も前だ・・・というわけで、私のロマンティックな幻想は露と消えてしまった!

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