京都「祇園」その1

祇園の成り立ち

古都京都の印象として圧倒的に人気を博しているイメージ。それは、夕暮れの東寺のシルエットと、舞妓芸妓の姿であろう。舞妓芸妓と彼女たちの舞台である花街(かがい、と読む)は数百年にも渡って磨かれ続けてきた京文化の粋である。花街と聞けば京都祇園と言うほどに祇園の名は世界中の日本ファンに知れ渡って有名である。

文月7月の黄昏の祇園を歩く。

白川の川面に桜の枝が低く垂れている。その枝先に結ぶ葉が透けて若葉に見えるほどの陽の濃さである。思いの外淡々と過ぎてゆく夏の日々の中で陽の光だけが揚々として石畳の通りも其処を急ぐ人も焦がすようだ。

日は大分西に傾いて茶屋のすだれも茜色に染まりだした。どこからとも無く三味線の音がかすかに路地にこぼれている。日中の火照りを抱いている石畳に打ち水をする仲居さんの手には余念がない。

夕間暮れの通りには不思議な高揚感が満ち溢れているものだ。建仁寺から花見小路通を上がり、四条通を越えてさらに花見小路通を北に上がり新橋通を西に進む。辰巳大明神のほとり、白川巽橋を渡った切通辺りには、味わいのある町屋がずらりと通りに面して佇んでいる。この界隈の祇園新橋地区は「伝統的建造物群保存地区」と呼ばれる。京都市には伝統的建造物群保存地区の指定を受けているところが4地区ある。清水の上賀茂地区、嵯峨鳥居本地区、産寧坂地区、そしてこの祗園新橋地区である。京都にある六つの花街 -「上七軒」、「嶋原」、「先斗町」、「宮川町」、「祇園甲部」、「祇園東」 - で保存地区を有する花街はこの祇園のみだ。だから祇園の路地には歴史の深みと花街の華やぎが同居していて、ぶらぶら歩きつつも、その雅趣の風情にいささか酔ってしまうような心地良さに胸が火照るのである。この界隈の町屋の建物は切妻造の二階建てで平入が特徴である。慶応元(1865)年の大火直後に建てられたものが多い。一階は格子付き、二階は座敷のしつらえで正面に縁を張り出し、すだれが掛かっている。

重要文化財指定の類はいずれも外観に手を入れるときは行政との調整が必要である。一方、内部の造作は構わないので、この町屋を利用した店舗が数多く営業しているというわけである。

さて、祇園とは「祇園精舎の鐘の聲」と平家物語にもある通り、釈迦が説法を行ったインドの地名である。八坂神社の元の賽神牛頭天王が祇園精舎の守護神であったところから、八坂神社は別名祇園神社とも称されていた。そこから、八坂神社の門前町界隈が祇園と呼ばれるようになったという次第だ。

この祇園は二つの地区に分かれている。八坂神社の西楼門から西に伸びる四条通と南北に走る花見小路通で祇園を4分割すると、北東の一画が祇園東、それ以外が祇園甲部である。通常、花街の祇園と言えば祇園甲部を指す。その歴史はもともとは、今の八坂神社の門前町として平安中期頃から発展してきた。鴨川東岸の大和大路沿いに八坂神社の参拝客や芝居客相手の茶屋町が作られるようになり、それらは「祇園外六町」と称された。享保17(1732)年、幕府よりの正式な茶屋営業の許可を得て、新たに末吉町、清本町、富永町、橋本町、林下町、元吉町の「祇園内六町」が開発された。現在の祇園新橋地区はこのうちの元吉町に当たる。江戸時代末期から明治時代初期にかけて祇園は最盛期を迎えた。隆盛期には500軒もの茶屋が活況を呈したという。

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