荘厳なる霊廟・日光東照宮は、徳川家康の構想に基づいて、天海が神格化の儀式を執り行い、狩野探幽が聖域を守る彫刻の企画構成を司った。これまで、天海と探幽が東照宮に施した様々な秘密をひも解いてきたが、この項では東照宮全体のグランドデザインを担当した小堀遠州とその知恵について見ていこう。
なお、その前に、前項でご紹介できなかった霊獣を二つ追加しておきたい。
唐門の恙(つつが)
唐門の屋根の上で、4体の霊獣が周囲を睥睨している。前後(南北)を守っているのが恙、左右(東西)を監視しているのが龍である。恙は夜間の、龍は昼間の警備を担当する想定だそうだ。恙は虎よりも凶暴な生き物で、逃げ出さないように、前足を黄金の輪でつながれている。「つつがなく」とは、病気や災難がないことを言うが、恙が災難の元ということなのか、恙がいなくても平和だということなのか、語源についてはわからない。
奥社・鋳抜門の袖塀にいる蜃(しん)
蜃は、蜃気楼の「しん」である。蜃が吐く息の中に現れる建物を、蜃気楼と言う。蜃の口からは、渦を巻いた管のようなものが出ている。これは舌ではなく、蜃の吐いた息を視覚化したもので、家康の霊廟がある奥社を守るために、その息で侵入者を幻惑しているという。
小堀遠州
東照宮全体のグランドデザインを行った小堀遠州(1579-1647)は、大名茶人であり、作庭家でもあった。茶の湯を大成した千利休が「侘び茶」を追求したのに対して、遠州の茶は「奇麗さび」と表現される。また遠州は、幕府作事奉行として、作庭の他にも、様々な空間設計を行った。宮元健次が『日光東照宮 隠された真実』の中で指摘するところによれば、遠州の空間デザインの知識は、東照宮の建設に携わる3年程前に、宣教師から学んだ西洋の最新科学に基づくものであるという。
遠州のグランドデザイン
鎖国下の江戸時代にあって、なぜ遠州は西洋の最新科学を学ぶことができたのであろうか。宮元によれば、1613(慶長18)年、後陽成天皇がヨーロッパの技術を宮廷付き工人に教えるよう命じたという。この宮廷付き工人が、遠州だった。実際、東照宮には、当時のヨーロッパで流行していたルネッサンス・バロックの建築様式である「遠近法」や「黄金比」、「サイフォンの原理」などが用いられている。
遠近法
遠州は、空間を実際よりも大きく見せたり、奥行きを深く見せたりするために遠近法を多用した。表参道から石鳥居まで続く杉並木は、創建当時は表門に近づくほど短く、低く刈り込まれていたという。この参道を目の前にした人々は、私たちが今見ているものよりも、表門までの距離が長く、参道が狭い印象を受けていたことだろう。
また石鳥居手前の石段も、同様に実際よりも高く見える工夫が施されている。上段ほど幅が狭く、段差も小さくしてあるのだ。さらに、石鳥居を越えると、千人枡形という広場のような空間が現れる。それまで杉並木によって制限されていた視界が、ここで一気に開けることで、空間の印象が強調されるのである。
同時代に、イタリア・ローマでミケランジェロが設計したカンピドリオ広場や、巡礼者のローマへの入り口にあたるポポロ広場も、この手法を用いて造られた。
さらに、表門、陽明門、唐門と進むにつれて、門は、より小さく狭く、高い位置に設置されている。これも遠近法を効果的に用いたグランドデザインである。
黄金比
人が、自然に心地よさと安定感を感じるバランスには、黄金比が保たれているという。宇宙空間で最も美しい数値と言われる黄金比は、1:1.618に近似する。レオナルド・ダヴィンチはモナ・リザや最後の晩餐で、意図的にこれを用いた(モナ・リザの顔は、まさに黄金比に一致する)。一方、遠州は、陽明門や唐門、本社の拝殿などに応用している。
サイフォンの原理
御水舎の水は、下から上に向かって噴水状に出ている。これは、サイフォンの原理によって水圧で水を噴出させるテクニックである。社務所裏から水路で導かれた水は、神庫裏の石垣から落下する。この水圧で、U字型の導管内の水が押し上げられて、水盤の水が下から上へと、水が流れ出るのである。
奥宮に至る複雑な道程
参拝者は、表門からすぐ左に曲がり、三つの重要な門をくぐるたびに階段を上る。そして、徐々に壇上に上って拝殿に着く。門も階段も結界であり、東照宮では、それらが何重にも張り巡らされている。しかし、家康の廟所であり、奥宮と呼ばれる最も重要な場所は、陽明門の内側を取り巻く結界の外にある。一度坂下門から外に出て、Uターンするような石段を登り続ける。そうしてようやくたどり着く奥宮は、これまでの煌びやかさとは対称的に、素朴で枯れた、地味な色合いの社殿である。このように何度も何度も迂回させるグランドデザインと、森の中に隠れるように設計された奥宮は、家康の廟所を守るための、遠州の秘技だったのである。
遠州がルネッサンス芸術の知識を持っていたことは疑いないだろう。そして、密かにそれを東照宮のグランドデザインに応用したことは、そこが聖域であることの異質さを表現する効果的な手段であった。遠州は、和洋の知識を撚り合わせ、新しいものに挑戦することをいとわなかった。そしてそれは、家康にも通じるところだった。家康は、あらゆる知識を総動員して、幕府存続と天下泰平のための一大プランを練り、自分の死後に、それが実現する可能性に賭けたのだ。
遠州の空間デザインと探幽の彫刻(立体絵画)デザインへの挑戦、そして天海の秘密の儀式。この三つの秘技が、唯一無二の世界遺産、日光東照宮としてここに結実したのである。
日光東照宮の秘技(3): 最新和洋折衷式のグランドデザイン