鎌倉 對僊閣

100年の歴史を刻む、長谷観音門前の宿

鎌倉の長谷観音門前は、みやげ物屋や骨董屋が並ぶにぎやかな通りである。その一角にある木造二階建ての和風旅館、對僊閣(たいせんかく)は、高欄や欄間窓など、社寺建築で見られる意匠が多用されている。この独特の外観に魅せられて、しばし足を止めて見入っている海外からの旅行者をしばしば見かける。磨き上げられたガラス窓を通して見える古くて美しい柱時計は、對僊閣で100年の歴史を刻んできたと聞く。

對僊閣

入口を入ると、正面に長い廊下が続いている。薄暗い廊下の先に何があるのか、少しわくわくする。小さな待ち合い(敢えてロビーとは言わない)には椅子が2脚あって、そのそばに、神棚と、赤い達磨と、禅寺によくある花頭窓が渾然一体となって収まっている。大きな柱時計は、手巻き式の古いものだ。右手には電話室がある。ドアを開けると、昔懐かしい黒電話が置いてあった。電話が珍しかった時代、駆け出しの頃の石原裕次郎が、よくここで電話を受けていたという。チェックインは午後3時半であるが、早めに到着して荷物を預かってもらいたい場合は、玄関の右手にある鐘を鳴らすとよい。

客室はすべて2階で、人数に応じて部屋が決まる。二間続きの広い座敷は、家族連れなどが利用する。鎌倉でテレビロケなどがあると、女優さんのメーク室に使うのも、この座敷だそうだ。かつては、正岡子規が句会に使っていた。

私たちが案内された部屋は、奥へ奥へと続く長い廊下の一番先の階段を上り、左手にある二面採光の明るい部屋だった。テーブルと座椅子、テレビ、エアコン、小さな鏡台が置いてあった。お茶菓子は、鎌倉権五郎神社の近くの名物、力餅だ。部屋の奥の戸を開けると、短い廊下があって、洗面所とトイレがある。浴室は1階中程にある。午後6時から10時までの間で、好きな時間を言っておくと、入浴中に布団を敷いておいてくれる。

夕食は付かないが、近隣にはうなぎの浅羽屋、お好み焼きの染太郎、中華の三和楼などがある。コンビニエンスストアも近い。

朝食は午前7時半から9時までの間で、希望の時間より少し前にボタンを押して連絡すると、布団を上げてくれる。おかずは地のものが中心で、井上蒲鉾店の梅花はんぺんや、高清のたたみいわし(カタクチイワシの稚魚を天日干しして薄い板状に加工したもの)、甘めの玉子焼きに、のり、自家製の漬け物、みそ汁と、ふっくら炊いたおいしいご飯が出た。

對僊閣の歴史

現在、宿を切盛りするのは、戦後、茅ヶ崎から嫁して来た鈴木サエ子さんご夫妻である。彼女によると、創業は明治後期で、藤沢駅が開業した1887(明治20)年頃には、駅から對僊閣まで、多くの旅人が歩いてやって来たと言う(その頃はまだ横須賀線は開通しておらず、鎌倉駅もなかった)。旅館は、初め、大仏裏の大佛公園(現存せず)にあった。

宿の主人、為吉の娘カクは、料理が上手いと評判で、避暑に来ていた皇族方の料理番に雇われた。皇族の方々はカクの料理を大変に好まれて、以後、毎年彼女を専任料理番として雇い入れた。ところが数年すると、カクの兄が事故で亡くなり、カクが旅館を継ぐことになった。カクは、大仏裏の宿屋を営む傍ら、夏は皇族方のために料理を作った。やがて結婚したカクは、長谷観音の門前にも旅館を新築した。前出の藤沢駅の開業に伴って、鎌倉への観光客はうなぎ上りに増え、商売も繁盛した。ところが1923(大正12)年の関東大震災で、宿は全壊してしまう。1927(昭和2)年、何とか今の和風建築の建物を再建し、再び商売は軌道に乗った。その頃には、カクの兄の娘で、子供のいないカク夫婦の養女になったワカが成長し、カクの料理の腕を引き継いでいた。ワカは、一口味わえば、その料理の材料や調味料の比率、作り方まで瞬時にわかるほどの、鋭敏な味覚を持っていたという。

第二次世界大戦中、一家は、石川県に疎開した。宿にあった由緒ある品々や什器備品は、まとめて疎開先に送ったものの、荷物のほとんどは届かなかった。その荷物の中に、美しい衝立があった。そこには、對僊閣の名前の由来となった漢詩が書いてあったという。

戦後は、ワカの長男で、現当主の陸三さんが對僊閣を継いだ。22才で陸三さんの元に嫁いできたサエ子さんは、以来60年以上、陸三さんとともに對僊閣を守り、その歴史を受け継いでいる。上品な物腰、きびきびとした立ち居振る舞いは、80代という年齢を感じさせない若々しさがある。

對僊閣の名前の由来

残念ながら、元の漢詩はわからない。大変教養のある名士の方が、宿屋を始めるカクのためにつけてくれた名前で、中国のとある場所にある、長い歴史を持った御殿に由来しているらしい。漢和辞書を引くと、「對」は「対」と同じで、二つで一組になるように揃える、また二つがまともに向き合うこと、とある。「僊」は魂が肉体を抜け出て、飛べるようになった人。仙人と書いてあった。勝手に想像するならば、仙人を具現化したような、世代を超えて永く受け継がれていく宿、ということだろうか?

チェーン展開しているビジネスホテルは、部屋は狭いが、清潔でとても機能的だ。けれど、同じ部屋の間取り、画一的なサービス。通り過ぎて行く旅人が、特別な感慨を抱く要素はない。對僊閣のように、時間を肌で感じ、ここにしかない空気を味わうことはできないだろう。積み重ねた歴史の中に、独特の趣をたたえた宿、對僊閣。鎌倉を訪れたなら、一度は泊まってみたい宿である。

追記

鎌倉市在住の岩崎力氏より、對僊閣の名前の由来についての考察と、命名についての推測をご教示いただきましたので、以下を加筆いたします。

江戸時代同様に、明治の知識階級も唐宋八大家などの漢詩をよく学んでおりました。八大家の一人で唐代の柳宗元の詩に「天對」があります。これは古代の大詩人屈原の「天問」に對(こたえる)という詩です。その一節に「問 延年不死…」、「對 僊者(仙人のこと)幽幽…」とあります。岩崎氏によれば、命名者は字面がよいので意味を無視して「對僊」と続け、 それに「閣」を補って「對僊閣」という屋号を作り、提供したのではないかということでした。

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