毎年12月17-19日の3日間、浅草寺境内では羽子板市が開催される。今日では、師走の東京の風物詩となった行事だが、実は遡ること16世紀、その年最後の縁日が、明治以降、羽子板市として今に伝わったものである。
羽子板市
江戸末期、羽子板に歌舞伎役者の押し絵を付けて売ったところ、それが話題を呼んでたちまち流行した。明治中期には、すでに縁日の主力商品となり、昭和25年頃から羽子板市という名前が定着したという。羽子板は「邪気を跳ね返す板」とか、羽根が害虫を食べるトンボに似ていることから「虫がつかない」などとの言い伝えがあって、女の子の成長を願う贈り物として喜ばれている。とくに押絵羽子板は、豪華で繊細な装飾が魅力である。
12月17-19日の午前9時から午後9時まで、約50店舗の羽子板屋が浅草寺境内に店を出す。店主と客の掛け合いは、情緒があって面白い。三三七拍子の手締めが聞こえたら、それは羽子板が売れた証である。そろいの半纏を着た売り子たちが集まって、威勢良く景気をつけてくれるのだ。今年の売れ筋は2万から3万円前後のものだというが、値切って安くしてもらった分は、「縁起物をありがとう」という感謝を込めて、ご祝儀として店に渡すのが江戸の粋だそうだ(つまり、言い値で買うことになる)。
1863(文久3)年に日瑞修好通商条約締結のために来日したスイス使節の団長、エメ・アンベールは、年の瀬の浅草を訪れてにぎわう境内を歩き、”Le Japon Illustre”に、江戸庶民の暮らしぶりを記載している(1870年 パリ・アシェット社)。
アンベール来日の目的
日本は1858(安政5)年にアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダ、翌年1859(安政6)年にポルトガル、ついで1860(万延元)年にプロシアとの修好通商条約を締結した。スイスはこれを追いかけるように幕府との交渉に乗り出したが、日本国内の政情は緊迫し、対外交渉のできる状況ではなかった。10ヶ月もの間交渉の場が設けられないまま、アンベール以下スイス使節は横浜に待機させられることになる。しかしアンベールや、随行した参事官のカスパー・ブレンワルトはこの機会を無駄にはしなかった。アンベールは写真家のフェリーチェ・ベアトなどを雇い、横浜近郊や江戸市内を見聞して歩き、資料収集に務めた。ブレンワルトは日本の産業や貿易について綿密な調査を進めた。
アンベールの浅草見物
アンベールには、(西洋人を敵視する攘夷派からの護衛という名の下に)常に幕府からの監視が付き、行動範囲は厳しく制限された。だが、アンベールは日本の文化、習慣、生活様式、宗教儀式等に、驚くべき詳細な記録を残している。これらは、もちろん意識的に収集された情報であり、後の商取引に役立てる意図をもって、積極的に選択された行動であった。では、アンベールの浅草見物を追ってみよう。
『浅草の大市は一年に一度行われるものだが、これは日本民族の好みを知る重要な手掛かりになるし、産業や風俗の縮図のようなものだと言っていいだろう。・・・年の瀬の15日間、浅草寺の広い境内は、あらゆる階級の人々がごった返している。・・・食欲をそそる焼鳥屋をはじめ、漬け物、乾物、干物、酒など、あらゆる食べ物の屋台がずらりと並ぶ。・・・文房具屋とか、本屋もある。便せんや封筒、江戸名産の絵図、絵草子や版画などに人気があるようだ。・・・また大市には骨董品の店も多いが、驚いたことに、中にはどんな厳しい批評眼にも絶えられる高度な趣味のものがある。』
『新年の遊びといえば、凧揚げ、竹馬、独楽回し、それに羽子板だ。・・・羽根つきは、娘たちの間にも、女性たちの間にもゆきわたっている。日本では、羽子板は扇子と同様に、若い女性への主要な贈り物とされる。パレットの形をした白木の板に、一面には絵を描き、他の一面は中綿を入れて立体感を出した押し絵を貼ってある。』
エメ・アンベール
アンベールは1819(文政2)年にスイスのヌーシャテルの小村、ビュルルの時計職人の家に生まれた。16才の時に父親が亡くなったため、家計を助けるために、フランス語講師として働き始めた。1848(嘉永元)年、29才でヌーシャテル臨時政府における最年少長官となり、10年後、スイス時計組合会長に就任した。アンベールは、スイスのアジア進出の一環として、シンガポールにオフィスを設置する。これを足がかりとして日本市場の開拓を目指すことになり、1862(文久2)年11月、スイス使節団長として、フランス・マルセイユを出航、翌1863(文久3)年4月に開港地横浜に上陸した。
条約締結後
1864(文久4)年2月6日、アンベールはようやく日本との条約締結にこぎ着けた。これで日本とスイスの国交が開かれ、貿易が開始されることになったわけだ。アンベールは2月17日に離日し、その後スイス政府から日本政府へ200品目を越える贈答品が手渡された。いずれもスイスが世界に誇る輸出品であり、拳銃、アブサン、高級時計、ボタンなどが含まれていた。この贈答品授受は、横浜の山下居留地甲90(参事官ブレンワルトが、自宅として永代使用権を獲得していた場所)で行われた。後にブレンワルトはハーマン・シーベルとともに貿易会社(シーベル&ブレンワルト)を設立し、ここにオフィスを構える。またスイス総領事館は1891(明治24)年まで同所に置かれており、シーベル&ブレンワルトの歴代支配人が領事を兼任した。なお、山手西洋館のエリスマン邸を建てたフリッツ・エリスマンは1888(明治21)年の支配人である。シーベル&ブレンワルトは何度か社名の変更があった後、DKSHジャパンとして今日まで存続している。
浅草の羽子板市は、年の瀬の東京の風物詩である。年末に東京を散策するなら、下町の江戸情緒が残る浅草見物はいかがだろうか。