茶の湯を極めた者は、一流の趣味人であることが多い。京都鷹峯の光悦寺はかつて、広大な庭に七つの茶室をしつらえた茶人の住まいだった。この屋敷の主・本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)は、江戸時代初期の京都で名を馳せた茶人にして、書の達人、さらには陶芸、漆器工芸家としても活躍した上流町人であった。しかし光悦の功績は単なる創作活動にはとどまらない。若き才能の発掘や日本の古典研究、優れた工芸品を、庶民の生活に普及させるよう勤しんだ点で、ほかの芸術家たちと大きく異なる。さらに、光悦の興した芸術活動の一部は、数百年の時を越えて琳派と呼ばれる絵画芸術の流れとなった。
なお本阿弥家は代々、熱心な日蓮宗徒であり、家屋敷は光悦の死後、日蓮宗の寺院となった。
光悦寺
入り口の前に立つと、なるほど、これが茶人の住まいかと思わせるような静かな気品がある。しかし、どこがどんなふうにと聞かれても、うまく説明できない。ただ、石畳も、沿道の苔も、並木の緑も、何もかもが洗練されていて美しく、心地よいのだ。寺社仏閣にありがちな、張りつめたような緊張感や、聳え立つ建物の威圧感などは微塵もない。美しいものに囲まれて、静かに花鳥風月を愛でる場所なのだろうということが、自然に感じられるだけだ。石畳を進んでいくうちに、その感覚はさらに強くなる。
小さな本堂にお参りをした後、緩やかにカーブする小道に沿って、庭に点在する七つの茶室を訪ねていく。飛び石の形や配置、生け垣の細工など、各茶室に、それぞれ異なる趣向が凝らされている。建物の内部は一般公開されていないが、縁故の深い人々は、ここで定期的に茶会を催しているようである。季節の草花を眺めながら小道を進み、所々にある長椅子に腰掛けて一休みしたり、四阿から借景の鷹峯を見たりと、広い庭を散策すること30分。満ち足りた気分になった。初秋の庭は、色づき始めた楓や紅葉が、雨上がりの緑に映えて鮮やかだった。もうひと月もすれば、鷹峯は赤々と燃えるような紅葉に染まるという。
本阿弥光悦
本阿弥光悦は、1558(永禄元)年、刀の研ぎ(磨研)、ぬぐい(浄拭)、めきき(鑑定)の三業を家職とする家に生まれた。日本刀の刀身の美しさは言うまでもないが、優れた刀は、鞘や柄、鍔の装飾にも見事な細工が施され、人々の関心を集めてきた。これらの装飾には、木工や金工、漆工、革細工、蒔絵、染織、螺鈿など様々な工芸技術が注ぎ込まれており、鑑定にはあらゆる分野に高い見識眼をもつことが必要とされた。光悦は、家業を通じて幼い頃から優れた工芸品に触れて育ち、次第に卓越した美意識を養っていったのである。そして長ずるにつれ、貴族社会とも通じる上流町人として、京都で活躍の幅を広げていった。
一方で光悦自身の志向は、書や茶の湯、陶芸、漆芸などにも深く注がれ、それぞれの道で一流の腕前を示したという。また、日本の古典に因んだ嵯峨本の出版活動を行ったことは、特筆すべきであろう。光悦の時代、流行の先端をいく禅や水墨画の興隆の影で、万葉集などの日本の古典は廃れかけていた。それを復活させるべく、光悦は料紙(装飾加工和紙)に美しいかな文字で書いた豪華本を作製したのである。それらは上流社会で徐々に人気を得て、貴族たちに愛蔵された。
さて40歳をすぎた頃、光悦は、若く才能ある絵師、俵屋宗達(1570?-不明)を見いだした。1602(慶長7)年、厳島神社の寺宝『平家納経』の修復に関わっていた光悦は、宗達の才能を見込んで作業に参加させた。それまで扇などの小物に絵を描いてきた宗達は、この経験を機に、襖絵や屏風などの大画面に挑戦し、その才能を大きく開花させることになる。そして、余白の美を生かした宗達の作品は、やがて琳派の絵師たちに受け継がれていく。
このように八面六臂の活躍をしていた光悦に、1615(元和元)年、転機が訪れた。将軍・徳川家康から、京都北西部郊外の鷹峯の土地9万坪が与えられたのである。一説によると、貴族や上流町人の間に多大な影響力をもつ光悦を、家康は京都の中心部から遠ざける意向があったらしい。
しかし光悦はこれを逆手に取り、鷹峯の敷地に一大芸術家村を造営した。自らの草庵を中心に、金工、陶工、蒔絵師、絵師などの工芸家や、筆屋、紙屋、織物屋などの商人たちを呼び寄せて、光悦村を営んだのである。光悦はここで、装飾を凝らした様々な日用品を生み出し、美しい工芸品を、庶民の日常生活に届けようとした。
光悦の作品
優れた書家でもあった光悦は、文房具である硯箱にはひとしおのこだわりがあったようだ。国宝の『船橋蒔絵硯箱』(東京国立博物館)と重要文化財の『樵夫蒔絵硯箱』(MOA美術館)は、教養人ならではの、古典を題材にした作品である。
船橋蒔絵硯箱
この硯箱は二つの和歌を題材にしている。
「かみつけの佐野の船はし(船橋)とりはなし(取り離し)親はさくれど(放くれど)わは(我は)さかるがへ(離るがへ)」(万葉集)
(両親は反対するけれど、わたしはあなたと離れたくない。)
これを受けて、100年後の歌人は、次のように自分の思いを詠った。
「東路のさの(佐野)の船橋かけてのみ 思い渡るを知るひとぞなき」(後撰和歌集)
(古歌にあるように、あなたと強く想い合っていたい。でも・・私のこの気持ちなんて、あなたは気がついていないでしょうね。)
光悦は硯箱の中央に鉛細工の橋をかけ、金地に波の地紋と小舟を並べ、銀で歌の一部を散らし書きした。教養ある人なら、万葉集の和歌を元に、、後撰和歌集の歌にあるような気持ちを読み解くことができるはず。この作品に込めた光悦の意図は、硯箱の意匠を見て、「なるほど、これがあの佐野の船橋をデザインしたものか」と思い至ることだったのだろう。
樵夫蒔絵硯箱
硯箱の表には、樵夫、すなわち木こりが背中に薪を背負って山道を歩いている姿が描かれている。謡曲『志賀』では、樵夫が桜の木の下で、しばしの休息を取っているところに、帝に仕える臣下が現れる。両者の会話の中で、樵夫はむかし大伴黒主だったが、今は山の神であることを明かして、神楽を舞うという物語である。蕨とタンポポと樵夫。この組み合わせから、桜を描かずに桜の美しさを讃え、春を喜ぶ心を表したものである。
光悦は、日本古来の優れた作品を抽出し、それを工芸品や書に込めて次世代の人々に伝えようとした芸術家であった。またそれは、観賞用の作品ではなく、生活に密着した日常工芸品であったことから、京都の庶民の間に、美しきよき物を楽しむという習慣が生まれたと言えるかもしれない。光悦の美意識が残るこの場所で、ひととき、洗練された茶人の心に触れてみてはいかがだろうか。
琳派の匠シリーズについて
琳派とは、16世紀に始まった日本絵画の流れを指しますが、当時からそう呼ばれていたわけではなく、現代になって振り返って名付けられた名称です。大胆な構図、装飾的かつ繊細な筆遣い、余白の美を追求する表現様式が、琳派の画家たちに共通しているようです。琳派の作家は、私淑という形で、過去の巨匠の作品に学び、そこから独自の美意識へと到達していく傾向にあります。このシリーズでは、琳派として紹介されることの多い5人の匠について、順次ご紹介していきます。
1本阿弥光悦(ほんあみこうえつ1558-1637):京都 光悦寺
2俵屋宗達(たわらやそうたつ 1570?-不明):京都 建仁寺
3尾形光琳(おがたこうりん 1658-1716):熱海 MOA美術館