名護屋城博物館(佐賀県)

日韓の歴史に触れて

佐賀県名護屋城博物館は、1592年から1598年の間に豊臣秀吉率いる日本軍が朝鮮からアジア大陸へ侵攻を開始するのに拠点とした城、その城跡の隣にある。当館は、日本列島と朝鮮半島の友好関係を促進することはもちろん、双方の歴史的な交流の記録・保存整備に尽力している。要塞エリアの遺跡とその維持管理もまた主たる目的となっている。当博物館による学術的・文化的交流の支援の一環として、韓国語講座や文化研究、学校間交流活動などのプログラムも利用できる。

当館の常設展示室は大きく分けて、「名護屋城以前」、「歴史の中の名護屋城」、「名護屋城以後」、そして「特別史跡  名護屋城跡並びに陣跡」の4つにまとめられている。展示品も古代から近代までの長い歴史の範囲にまたがっている。

この小さな博物館の目玉は、日韓両国が400年前の侵攻の際に使用した大船2隻の復元物だ。2本マストの亀甲船は、秀吉の侵攻の際に戦った朝鮮水軍の李 舜臣(イ・スンシン)将軍の功績を称えるものだとされている。この船は24基のカノン砲を備え、船首は龍の形をしており、威嚇的な砲火や防護煙(あるいは有害煙)、また大砲までも発射できた。遠くからでも射撃は可能だったが、接近攻撃がこの船の主な戦術用法で、敵に衝突して沈没させていたと考えられる。甲板も装甲されており、矢や砲弾、火炎攻撃などから船や戦員を守っていた。また、船には錘刀が施され、艦船に人が上って―当時の日本軍の主だった海戦手法―これないような仕様だった。

もう1隻は日本の安宅船で、比較的少ない武器類を備え、機動性もより低かった。この船は、強固に装甲された要塞のような働きをしていた。李 舜臣の統率力と朝鮮軍の優等な船が、日本の侵攻を打ち払うのに大きく貢献した。

朝鮮とのこの戦いのあと、日本にとって目新しかった製陶技術を含め、芸術や文化のさらなる交流が起こった。朝鮮の窯業技術は佐賀に根付き、今日高く評価されている伊万里や有田といった焼き物の流派となる新しい産業が始まることとなった。ここでは、そのような陶磁器の例を見ることができる。

常設展示室にはさらに、優美な着物や、城や城下町の模型、絵画や美術品、地図、古い旅行パンフレット、植民地時代の教科書や工芸品などが展示されている。

日韓関係は、秀吉による進行や現代の植民地時代などの底辺期を含め、何世紀にもわたり緊迫したものであった。しかしながら、よりよい未来をつくるため、当博物館は歴史を研究しそこから学ぶことを目指しているのだ。

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