福井県敦賀の気比神宮に向かう途中、ある標識が目に留まった。「大谷吉継菩提所」と書かれた標識だ。えっ、なんでこんなところに大谷吉継の菩提所が? と興奮し、気比神宮へ行くことなどすっかり頭から吹き飛んでしまった。なぜなら私は、大谷吉継の大ファンなのである。大ファンと言っても、彼の足跡を訪ねて野を越え山を越えるほどではない。しかしこのような棚ボタ式の行幸は、落ちてきたなら必ず拾うほどのファンではある。そんな私にとって、見ずに帰るという選択肢があり得ないのはご想像頂けるに違いない。
大谷吉継って誰だ?
これは少し説明が必要だろう。なぜなら彼は日本人の間ですら、それほど有名ではないからだ。大谷吉継は戦国時代 ( 1467 - 1573 ) の武将で、天下人、豊臣秀吉の臣下だった。彼が歴史に名を留めたわけは、おそらく彼の石田三成との友情に起因するだろう。ご存知石田三成は豊臣家を守るため、関ヶ原の戦いで徳川家康に真っ向から挑んだ人物だ。そして大谷吉継は、負け戦と知りながらも親友三成のため西軍に加担し、最後まで勇猛に戦った人物なのである。戦国時代から江戸時代を通じて、武士にとり最大の懸案事項はお家の安泰だった。たとえ強き者に正義がなかろうとも ( この場合の徳川家康 )、強い側に加担し生き残りを図るのが常道。そんな時代に友情や信頼を重んじ、負け戦に加担した大谷吉継は奇特な存在で、それ故歴史に名を遺したのかもしれない。
石田三成との友情
二人は共に近江 ( 現在の滋賀県 ) の出身で、幼少時代より小姓として秀吉に仕えた。当時の小姓とは現代でいう「幹部候補生」で、後に彼等は豊臣政権を支える中核官僚となった。要するに彼等は幼馴染であり、仲の良い同僚だったのだ。
ここに、吉継と三成の厚き友情を示す面白いエピソードをご紹介する。吉継は当時ハンセン氏病 ( 当時の癩病 ) を患っていた。彼の病は重く、常時白布で顔を覆わねばならぬほどだった。1587年のある日、大阪城内で茶会が催された。茶碗は出席者が廻し飲みするのが習いだ。吉継の番が廻ってきた時、彼の顔から膿がポトリと茶碗に落ちた。しかし彼は通例に従い、茶碗を次の出席者に廻さねばならない。出席者は皆感染を怖れ、飲んだふりをしつつ次々と茶碗を廻して行った。三成の番が来た時、彼は茶碗になみなみと残った茶をごくりと一息に飲み干し、「大変結構なお手前でした」と言ったそうだ。それを目の当たりにした吉継は茶会後に「三成のためなら死ねる」と漏らしたという。
関ヶ原の戦い
そして関ヶ原である。家康を討つ旨三成に告げられた吉継は、何とかして三成を思いとどまらせようとした。勝算はないと見たからだ。しかし三成の決意は固く、吉継は「三成のために死ぬ」覚悟を決めた。こうして西軍に属した吉継は、最後の最後まで親友と共に勇猛果敢に戦った。彼は病のため、この時既に目は見えず、自分で歩くことすら出来ない身の上だった。しかし輿 ( 木板 ) の上から自軍の指揮を取り、部下を叱咤激励し続けた。戦終盤、西軍総崩れとなった時、吉継は家来に命じた。「切腹後、私の首は敵に渡すな、隠せ」と。家来は彼の命をよく守り、関ヶ原のいずこかに吉継の首を埋めた。その後今日に至るまで、彼の遺体及び首は発見されていない。
敦賀の永賞寺
関ヶ原での敗戦以前、吉継は敦賀城主だった。その事実を考えると彼の菩提所が敦賀にあっても不思議ではない。寺の境内に掲げられた説明板によれば、ここにある吉継の供養塔は、関ヶ原の合戦の9年後この寺に建立されたものだという。
吉継の三成に対する美しい友情と関ヶ原での勇奮は、多くの歴史ファンの間で未だに語り継がれ、彼が地元の人々に愛される所以ともなっている。敦賀市はその人気にあやかり、なんと「よっしー」と呼ばれる大谷吉継のマスコットキャラクターまで作った。この「よっしー」、地元の人気者であることは言うまでもない。