称念寺は、福井県坂井市丸岡町長崎にあるお寺です。
観光で行かれても、見つけるのが少し難しいお寺です。
縁起によると、泰澄大師というお坊さんがこの地を訪れ、養老5年(721)元正天皇の勅願を受け阿弥陀堂を創建したと記録してあります。
この寺が、本領を発揮するのは、一遍上人という鎌倉時代のお坊さんが開いた時宗の寺になってからです。
鎌倉幕府の終わり頃、世の中が乱れ不満を持つ武士たちが現れます。その代表的なのが足利尊氏や新田義貞、楠木正成です。この時鎌倉幕府を滅ぼした武士の代表が新田義貞です。ところが、天皇、上皇の思惑が複雑に絡み合い、足利尊氏と新田義貞は、たもとを分かち争う事ととなりました。これからは、南朝と北朝に別れ日本中を巻き込んだ戦乱の世へと変わっていきます。
福井、昔の越前地方もこの戦乱の舞台になりました。新田義貞は、敦賀の金ヶ崎城の不利から退却を決め、福井市の九頭竜川ほとりの灯明寺畷の戦いで戦死してしまいます。新田一族は最後まで南朝の後醍醐天皇を裏切ることなく戦い続けた義に厚い武士としての評価を受けています。
新田義貞は称念寺の住職と古くより交友を深めていたので、その首を討たれた遺骸は時宗のお坊さん8人にかつがれて、灯明寺畷からこの丸岡の地に運ばれ、手厚く葬られました。これにより、称念寺は新田義貞の菩提寺として知られるようになりました。新田が源氏であることから、次の物語が生まれます。
永禄5年(1562年)に、美濃を追われた土岐源氏の明智光秀が源氏ゆかりの称念寺を訪ね、門前に寺子屋を建て生活しました。この話は有名で、江戸時代の松尾芭蕉は称念寺を訪れその頃の光秀夫婦を『月さびよ 明智が妻の咄せむ』と尋ねた後の伊勢の国で、俳句に詠んでいます。
これは、明智光秀の妻の煕子が、朝倉家臣を招いての光秀主催の連歌の会の賄費用に自らの髪を切って売り払った費用を当て、のちの光秀の出世の糸口になったことを詠っています。夫婦の生活は貧しくとも、住職と連歌や漢詩を詠んで、後の細川ガラシヤもこの地で誕生したようです。この後の光秀の激動の時代の始まりが、ここから始まったのですね。
このお寺も観光寺院ではなく、最近まで檀家もない、存続しているのが不思議なくらいの変遷のあったお寺です、尋ねられたら、義貞公の墓所と、それを守られてきた人々の思い、尋ねた芭蕉の受けた感銘にどうか触れてみてください。静かな境内は、貴方にそれを伝えてくれるかもしれません。また、坂井市内には同じ源氏の太田道灌の墓が子孫の方により建立されていたり、継体天皇の母の振り姫の屋敷跡がひっそりと地元の方の手で護られていたりしますので探してみてください。