臨済宗天龍寺派の等持院は嵐電で「北野白梅町駅」から一つ目。足利尊氏が創立した寺です。
鎌倉時代は現在と違い、天皇は政治の表舞台に出、その政策のためには兵をも動かす大きな権力を有していました。後醍醐天皇は平安時代のような、絶大なる権力を持つ天皇政治の復活を目指し、建武の新政を立ち上げます。しかしこれは度が過ぎ、武士勢力から大ブーイング!鎌倉幕府の滅亡に貢献した足利尊氏ら有力武士も離反してあえなく瓦解しました。
後醍醐天皇は吉野に逃れ南朝となり、尊氏の奉じる光明天皇の北朝と対立。これが俗に言う南北朝です。
尊氏の生涯は合戦に継ぐ合戦。せめぎ合いの連続にありました。昔のサムライというのはこと戦闘になると、ものすごく残虐というか、敵をひたすら殺す、ということ一点に全力集中で、今の私達の倫理観では残虐犯罪に値することが彼ら侍の当然の行いでした。敵の首を切って何人殺したかを誇るために腰に結わえ付ける。頭一つ5~6キロはするわけですから、4つも5つもつけたら重くて歩きにくいのです。武将たちはいざ戦となると命も惜しまず、戦場に駆けて行きました。しかし普段は義に厚いと言いましょうか、義を重んじました。そのような武士の中心にあって戦乱を駆け巡った尊氏。彼の心境はいかばかりだったのか、聞いてみたいものです。
1358年4月晦日。合戦の際、背中に受けた矢傷がえそを起こして、尊氏は54年の生涯を閉じました。
禅僧であり等持院の初代住職であった夢窓国師がデザインした美しい庭の中央に、「心字池」があります。尊氏の墓はその池のほとりに静かに佇んでおり、水面が春の日差しを弾き返して眩しく煌めいていました。