福井城址を訪れると、まず目に付くのは巨大な近代ビルだ。なんと城跡にコンクリートの福井県庁舎が聳え立っている。古式床しき城の石垣の彼方に聳える近代的ビルを目の当たりにし、少々幻滅した後右へ曲がれば、次に目に入るのが結城秀康の銅像だ。福井藩初代藩主 結城秀康が、侍大将姿も勇ましく、そこに佇んでいる。この勇猛な銅像を初めて見た時、私は寂寥の念を禁じえなかった。というのも彼がその短い生涯の中で、一度もこのような姿で勇猛果敢に戦った事がないことを知っていたからだ・・・
背景
福井藩初代藩主、結城秀康は、徳川幕府 (1603-1868) 初代将軍、徳川家康の次男として生まれた。しかし家康は織田信長の命により、1579年、その長男を処刑する。家康の次男であった結城秀康は、その際当然嫡子となるべきであったが、家康は三男の秀忠を嫡子に定める。何故か? それは結城秀康が生まれるべくして生まれた次男ではなかったからだ。
結城秀康、不遇の生い立ち
ある日家康は正妻の侍女の一人に目をつけ、一夜を共にした。家康にとっては、翌日その侍女の名前すら覚えていないほどの他愛無い出来事だった。その後、侍女の妊娠が発覚したが、家康は無視する。しかしその侍女、男子 (秀康) を出産したのだ。当時の武家にとって男子といえば、お家存続の大事な宝。そのまま捨て置くわけにもゆかず、家康の忠臣の一人がその子を預かり養育した。当の家康、秀康が3歳になるまで対面すらしなかった。実の父に望まれず、愛されぬ不遇の子供時代を過ごした秀康。その後長男が処刑されると、家康は次男秀康を無視し、三男を嫡子に選ぶ。
秀吉の人質
豊臣秀吉が天下を取り実権を掌握すると、秀吉は家康に忠誠の証しとして人質を要求した。家康は、次男秀康を人質に出す。実子のなかった秀吉は、秀康を養子に迎え、実の子同様に可愛がった。因みに秀康の名は、秀吉の「秀」、家康の「康」から付けられたものだ。父の愛を知らずに育った秀康は、初めて自分を子として可愛がってくれた秀吉によく懐き、愛した。
結城秀康の資質
家康が次男秀康を豊臣秀吉の人質に出した時、秀康はまだ子供で、その資質や将来性は未知数だった。しかし、意外にも疎まれてそだった秀康、勇猛果敢、自信と威厳に満ちた稀に見る逸材へと成長する。誰もその意には逆らえず、その場にいるだけで他を圧倒する秀康。要するに、天下を治めるに足る人物だったのだ! 秀康が成長するにつけ、ゆるゆるとその資質に気付き始めた家康と秀吉は、彼の存在を怖れるようになる。それには彼らなりの理由があった・・・
秀吉に実子誕生!
豊臣秀吉は、長い間子に恵まれなかった。しかし奇跡的に側室の一人が子を産んだ。淀君との間に生まれた子だ (淀君は、秀吉の子を2人産むが、長男は夭折する)。実子がないため、秀吉はそれまでに秀康を含む多くの養子を迎えていた。しかし一たび実子が生まれると、愛する一人息子、豊臣秀頼の存在を脅かさぬよう、養子を次々と他家へ出した。そのようにして、この記事の主人公秀康も、再び他家へ養子に出されることになる。関東の名家、結城家だ。ここで秀康の名は、豊臣秀康から結城秀康へと変わる。秀康がまだ秀吉の養子だった時代、秀吉は秀康を戦地で戦わせなかった。我が子秀頼の将来を考えた時、秀康に活躍されると困る、というわけだ。秀吉の配下大名達が、秀康を崇拝するようになってはまずいのだ。後に死の床に就いた秀吉は、秀康にこう言う、「秀頼をどうかよろしく頼む。実の弟だと思って、身の立つようにしてやってくれ」、と。
家康の行動
家康は、実の我が子、次男秀康を丁重に扱う。とはいえ秀吉同様、やはり秀康を戦地へは送らなかった。1600年に起こった関ヶ原の戦いでも、「留守居をしろ」と秀康に命じる。このため秀康は戦国時代中最大の戦に参加することを許されず、活躍の場を失う。理由は簡単だ。秀康が戦で奮闘し、鮮やかな侍大将振りを発揮すれば、徳川家を含む配下の大名達が「秀康様こそ我らが大将」と慕い、徳川家に内紛が起こるかもしれないからだ。しかし跡継ぎは既に三男秀忠と決まっている。ここで興味深いのが、その嫡子秀忠、あまりの優柔不断と大将たる資質の欠如により、なんと関ヶ原の戦いに「遅参し」、理由こそ違え、同じく参戦できなかったのだ。家康、この時ばかりは秀忠を嫡子に選んだことを悔いたに違いない。
秀康の晩年
関ヶ原の合戦後、家康は秀忠に越前・福井68万石を与える (現在の貨幣価値で、およそ500億円程度)。家康の息子としては決して少なくはない、しかし例え秀康がその気になったとしても、徳川幕府を打倒できるほどの身上ではない。この新しい所領を知った時、秀康はこう言った、「どうやら父上は、私を雪の牢屋に閉じ込めたらしい」と。当時の雪国は一たび冬になれば身動きできず、春まで軍隊は出動できなかった。
秀康の死
結城秀康は1607年に逝去した。梅毒と言われている。享年34歳、関ヶ原の戦いの7年後、徳川家康が豊臣家を滅ぼす8年前だ。勇猛果敢、天下人たる資質を備えた秀康は、ついにその短い人生で何ら偉業を達成することなく死んだ。彼の生い立ちそのものが、彼の行く手を阻んだのだ。その存在と類まれなる資質自体が脅威と化し、彼の人生を決定してしまった。死の直前、秀康は嫡子に遺言した、「徳川が秀頼様 (秀吉の忘れ形見) を害するような事あらば、必ず秀頼様のお味方をしろ」と。彼の予言は的中し、1615年、徳川幕府は豊臣秀頼を滅する。大阪城を焼き尽くしたのだ。秀康の嫡男は父の遺言を破り、徳川家に属し、豊臣を攻撃した。かくして福井藩は徳川幕府が終焉を迎える1868年まで、徳川家の親藩として継続することになる。
もしも?
このように歴史を紐解いた際、「もしも?」と夢想することがないだろうか? 「凡庸な秀忠の代わりに秀康が徳川家を継いでいたなら?」、「秀康が長生きし、大坂の陣で豊臣秀頼の味方をしたとすれば?」、「もしも?」、「もしも?」・・・こんなことを夢想するうち、眠れなくなるのは私だけじゃないはずだ!