東の鳥辺野、西の化野と謳われた京都のこの2つの地は、戦乱や天変地異さらに流行り病などで落命した人々の「葬りの地」であった。空也上人の「地蔵和讃」にある「これはこの世の事ならず/死出の山路のすそのなる/賽の河原の物語/嬰児が河原の石を取り/集めこれにて廻向の塔を積む/一重積んでは父のため/二重積んでは母のため」とあるように、石を積み上げた河原の有り様を思わせることから西院の河原という。化野の「あだし」とは「はかない、むなしい」の意であるという。古来は風葬であったがやがて土葬となりこの化野にて石仏を奉り永遠の別れを悲しんだ土地であった。
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