徳島城は、地元の人々が学校の遠足や美術クラスの写生、夏の阿波踊りの練習などで頻繁に訪れる憩いの場所だ。徳島育ちの私にとっても無論、馴染みの深い場所である。だから今回の徳島旅行では、城跡を訪ねる気はさらさらなかった。しかしあいにく、神戸の舞子から乗った高速バスが渋滞のため2時間遅れ、ようやくJR徳島駅に辿り着いた時、既に午後4時だった。仕方なく、その日のうちに鳴門ドイツ館を訪れる計画を急きょ変更し、代わりに駅から近い城跡に行くことに決めた・・・
予定外の訪問だったが、来て良かった、と心底思った。この時もし来ていなければ、私の徳島城に対する印象は、単に馴染み深い場所、というだけで終わっていただろう。何十年ぶりかで再び訪れた城跡は、全く違った印象を私に与えた。地元の人間としてではなく、生まれて初めて観光客として客観的に見たからだろうか、素晴らしい、と感じたのだ。ここには城の建物は何も残っておらず、昔からある石垣と、新しく復元された城門や橋があるだけなのだが、それにも拘らず感動してしまった。手入れの行き届いた城跡全てが (敷地内には徳島中央公園がある) 美しく整備され、この状態を保つのにどれだけの時間と労力が必要か、想像するだけでも頭が下がる。徳島、すごいじゃないか、と、何やら誇らしい気持ちになった・・・なんといってもここは私の生まれ故郷なのだ!
徳島城の歴史
徳島城は1585年、徳島藩初代藩主、蜂須賀家政により築造された。以降、明治新政府が多くの城を取り壊すよう命じた1875年まで、ほぼ300年もの長きにわたり、蜂須賀藩統治の下、この城は徳島の地に聳え立っていたのだ。唯一残った「鷲の門」は第二次世界大戦中に焼失したが、1989年再建された。主要な城の建築物が残存していないにも拘らず、徳島城跡は2006年、日本100名城の76番目の城に指定された。
初代藩主 蜂須賀家政の父、著名な「山賊」 蜂須賀正勝 (小六)
当初、蜂須賀小六と名乗った徳島藩初代藩主の父、蜂須賀正勝を知らない人はあまりいないだろう。彼は1590年に日本全国をほぼ制圧した豊臣秀吉の忠臣だった。蜂須賀小六の知名度は、秀吉の家臣になる前、彼が山賊だったことに由来する。歴史学の研究結果では創作の可能性が高いとのことだが、1626年に出版された豊臣秀吉の生涯を描いた「太閤記」に「小六は山賊だった」との記述がある事から、長い間山賊説が信じられてきた。この山賊説については面白いエピソードがあるので下記にご紹介する。
明治天皇と蜂須賀茂韶の面白いエピソード
日本の著名な歴史小説家、司馬遼太郎のエッセイによると、明治天皇と蜂須賀家14代当主、蜂須賀茂韶 (はちすかもちあき) との間に、こんなやり取りがあったらしい。蜂須賀茂韶が明治天皇に伺候するため宮中に参内した折、茂韶が待たされた応接室のテーブルの上に葉巻が置かれていた。そのあまりの香しさに、茂韶はついその葉巻を1本失敬してしまった。それに気付いた明治天皇が、「蜂須賀よ、先祖は争えんのう」と楽しげに茂韶を眺めながら言った、というのだ。明治天皇は太閤記の記述を信じていたらしい。これを知った蜂須賀藩、なんとか先祖の汚名を注ごうと、大慌てで歴史学者に頼み、山賊ではないと立証しようとしたらしいが、結果は思わしくなかったとか!? しかし私は個人的にこのエピソードが大好きなのだ。こともあろうに明治天皇から葉巻をくすねるなんて、蜂須賀茂韶もいい度胸をしているではないか! それに山賊が悪いと言うが、そもそも戦国時代から江戸時代にかけてほぼ全ての大名達が、戦に勝って敗者から土地と権力を奪い、自ら大名に取って代わったのだから、それを言うなら全員が大泥棒だ。
とにかく、徳島市の中心部に長きにわたり君臨してきたこの城を、機会があればぜひ一度訪れて散策してほしい。城跡、博物館、公園、美しい庭園等々、見る物は沢山ある。JR徳島駅からも徒歩圏内だ。他にも城跡の写真を別の記事で紹介している。合わせてご覧頂きたい。