京都 鹿苑寺金閣

金の楼閣と饗宴の庭

相国寺塔頭の一つである鹿苑寺の金閣は、仏舎利を納めた美しい三層の高楼である。この金閣に対面して実感するのは、金色の影を映す広々とした鏡湖池、中島や苑路の見事な松、背景の折り重なる山々など、庭園全体が金閣を美しく見せる舞台装置となっていることだ。

室町幕府・第三代将軍、足利義満(1358-1408)は、将軍職を息子・義持に譲って出家した後、山荘「北山殿」を造営した。創建当時の北山殿は、いくつもの建築物が立ち並ぶ饗宴の庭であり、時の天皇や、明の使者、貴族などが、様々な饗応を受けて、楽しいひとときを過ごした。

政治家としての義満の功績は、第一に、半世紀続いた南北朝時代を終息させたこと、第二に、遣唐使廃止以来500年間途絶していた対外貿易(日明貿易)を復活させたことである。金閣は義満にとって、成功のシンボルだったのかもしれない。

義満の死後、北山殿は相国寺の塔頭寺院となったが、歴代の足利将軍や貴族たちは、その後もここを訪れて、しばしば宴を催したようだ。まばゆい光を放つ金閣に上ったり、池で船遊びをしたり、金閣の背後にある小高い丘の苑路を散策したり、さらには、かつて金閣に架かっていた橋を渡り、空を駈ける心地を味わったりと、様々な楽しみ方をしていたようである。

金閣寺の宴

1402(応永9)年から1407(応永14)年まで、義満は、日明貿易のために来日した明の使者を、ここ北山殿で接待した。また、1408(応永15)年には、後小松天皇の行幸に際し、金銀の造花を庭にまき散らし、舞や連歌会、猿楽、蹴鞠、船遊びなどを催した。

当時の北山殿の様子を伝える資料の一つ『臥雲日件録』(相国寺の僧・瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)の日記)は、次のように述べている。

「高く聳え立つ楼や閣、絵や彫刻で飾った建物が、星を散らしたように立ち並んでいる。これは天上から下りてきたものなのか、それとも地中から湧き出たものなのか。極楽浄土のようなこの風景は、天下の語り草となっている。」(漢文より意訳)

また、1638(寛永15)年の『隔蓂記(かくめいき)』(金閣寺の住職、鳳林承章(ほうりんじょうしょう)の日記)には、茶屋で薄茶を飲んだり、山に登ってお弁当を食べて、少しお酒を飲んだとか、金閣に上って、そこから船に乗って遊んだり、戻ってうどんや具入りご飯を食べたりしたなどと記されている。

金閣の建築様式

金閣は三層からなる楼閣である。一層目は仕切りのない板の間の寝殿造り、二層目は内部を襖で仕切った武家造り、三層目は花頭窓を設え、仏舎利を納めた禅宗様の造りをしている。また外観は、一層目は色調を抑えた木目、二層目・三層目は漆の上に金箔を押した黄金色である。池の畔にある金閣の姿は、水面に映ってさざ波に揺らぐ。光の当たる面がほとんどない一層目は、黒子のように姿を消して、黄金の輝き放つ上層だけが水面に漂っているように見える。

土地の記憶

記録に残る最初の所有者は、鎌倉時代の公卿である仲資王(なかすけおう:1157(保元2)年-1222(承応元)年)である。後に太政大臣の西園寺公経(さいおんじきんつね:1171(承安元)年-1244(寛元2)年)がこの土地を入手し、巨大な氏寺である西園寺と、別荘の北山第を建立した。北山第に招かれた歌人の藤原定家(西園寺公経の姉は定家の後妻)は、日記『明月記』に「四十五尺の瀑布、瑠璃の池水、泉石の清澄、実に比類なし。」と賞賛している。しかし、鎌倉幕府の滅亡とともに、西園寺家の力も衰え、それから半世紀、庭園は荒廃した。

1397(応永4)年、西園寺家の北山第は、義満の手腕によって北山殿に生まれ変わった。義満は、祖父・足利尊氏が帰依していた夢窓疎石を敬愛しており、北山殿築造の前に、夢窓疎石が築庭した西芳寺を幾度となく訪れた。禅者であった義満は、時には西芳寺で夜を徹して座禅を組むこともあったという。義満は、その西芳寺を範として北山殿を設計したと言われている。西芳寺の庭は上下二段の構成を取り、池泉回遊式の下段の庭には、かつて瑠璃殿という楼閣が立っていた。また上段の庭は、元々あった古墳の石材を、(容易に取り除くことができないので)石組みに転用して築かれていた。

上下二段の庭

金閣と池を巡る下段の庭は、この世の楽園とでも言うべきか。日が西に傾く頃、眩しいほどに光り輝く金の楼閣。創建当時の金閣には、アーチ状の亭橋(あづまやばし)が架かり、その先には会所が置かれていた(現在は消失)という。橋の中央に立って夕日を望むと、光を受けた目の前の金閣と、池に映ったもう一つの金閣を間近に見ることができたようだ。西方にあるという極楽浄土。亭橋は、穢土と浄土を結ぶ境界を表していたのかもしれない。

丘を登って上段の庭へ行くと、あの世の世界に入る。かつて上段の土地には、西園寺家の墳墓や石室があった。義満は、既存の池も、湧水も、塚も、石室も、敢えて上段の庭に組み入れて、輝く金閣との対比を試みたのである。

このシリーズについて

1339(延元4 /暦応2)年、夢窓疎石は西芳寺に、上下二段の構成を持つ庭を築造しました。下段の優雅な池泉回遊式庭園と上段の厳しい枯山水は、当時はすばらしい対比を見せていたことでしょう。700年近い歳月は、その庭を大きく変貌させました。今では美しい苔が一面を覆い、この庭の新たな魅力を引き出しているようです。

このシリーズでは、上下二段の構成を持つ3つの庭を巡り、それぞれが作り出す美的空間を鑑賞していきたいと思います。

1 西芳寺:禅僧・夢窓疎石(1275-1351)が築庭した「苔に覆われた修禅の庭」

2 鹿苑寺金閣:足利義満(1358-1408)が監修した「金の楼閣と饗応の庭」

3 慈照寺銀閣:足利義政(1436-1490)が監修した「銀の楼閣と月見の庭」

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