横浜市は、明治から昭和初期にかけて建設された複数の洋館を、山手地区に移築し、保存復元して一般公開している。その中の一つが、大手生糸貿易商シーベルヘグナー社の横浜支配人を勤めたフリッツ・エリスマンの私邸、エリスマン邸である。元町公園の山手本通沿い、ベーリックホールの並びにあるかわいらしい洋館は、チェコ共和国生まれのアメリカ人、アントニン・レーモンドが、巨匠フランク・ロイド・ライトから独立して間もなく設計したものである。
エリスマン邸
12月のエリスマン邸は、キラキラしたクリスマスの飾り付けに彩られ、一年のうちで最も華やかだ。横浜の紅葉はたいがい12月の初旬に色づくので、それに合わせて山手通を歩けば、紅葉とクリスマスの豪華な競演を味わうことができる。1階はダイニングやリビングなどのパブリックスペースで、ディナーのテーブルセッティングやクリスマスツリー、暖炉のデコレーションが楽しい。2階はプライベートな空間であり、個室とバスルームだったが、現在は山手西洋館の地図やエリスマン邸のジオラマの展示をしている。全体として、装飾はシンプルで、大きな窓やゆったりしたサンルームなど、居住空間としての快適さを追求した、現代風のデザインである。1階奥の喫茶室は、窓から元町公園の緑が目の前に迫る、この家の特等席である。
フリッツ・エリスマン
この館の主であったフリッツ・エリスマン(Fritz Ehrismann)は、チューリッヒ生まれのスイス人で、1888(明治21)年、21才で来日した。彼は横浜で設立されたスイス系商社に勤めてキャリアを積んだ後、独立して、北海道貿易を興して横浜を離れた。その後、事業の不調から横浜に戻って間もなく、1940(昭和15)年に亡くなっている。エリスマンの勤めていた会社は、生糸貿易から始まり、スイスの高級時計、万年筆などの文具、食品、医薬品などを扱う総合商社に発展した。1932(昭和7)年に本社を横浜からチューリッヒに移して、現在も全世界にビジネス展開している(国内の子会社はDKSHジャパン)。
エリスマンとレーモンド
1923(大正12)年の関東大震災は、横浜に壊滅的な被害を与えた。山下町にあったエリスマンのオフィスと倉庫も全壊し、事業再開は困難だと思われた。しかし、幸いエリスマンは無事で、残ったスタッフとともに、神戸に逃れて仕事を継続することができた。多くの商社が横浜を離れる中、エリスマンの会社は、横浜に新オフィスと倉庫を再建することになり、シンプルかつモダン、しかも機能的なデザインを得意とするレーモンドに設計を依頼した。それが縁で、後にエリスマンは、レーモンドに自邸の設計も委ねることになる。レーモンドはまた、日本建築にも造詣が深く、他の外国人建築家と違って、伝統を生かしたモダンな和室を設計することができた。このことは、日本人の妻を持つエリスマンが、レーモンドに設計を委ねた理由の一つだったかもしれない。現在喫茶室になっている部屋の先には、エリスマン夫人(石川志満)のための、床の間のついた立派な和室があったという。
和室と日本女性
レーモンドが1935年に出した『レーモンド作品集』に載せた文章の中に、和室に対する記述がある。「日本人は旧来の習慣に執着し、今も畳の上に座るのを好む。」と観察した上で、「日本の女性は、今も常時着物を着る。そのため、着物、帯をしまうたんすを置く特別な部屋と、着物をたたむのに必要な、畳の部屋がなければならない。」と、日本女性の生活環境における和室の重要性を認識している。また、「畳は踏めば足触りがよく、幾人も寝ることができる。」と、和の空間の利点についても述べている。エリスマン邸の和室を作ったレーモンドが、当時の日本人の暮らしを熟知していたことがわかる。
Basic Principles in Architecture『建築の基本原則』
1953(昭和28)年、レーモンドは『建築の基本原則』と題して、建築家としての哲学を語っている。
「建築家にとって重要なのは、外観や材料ではなく、それを作り出す哲学である。つまり、構造や形体の背後に横たわる思想であり、思考なのである。」
こう述べて、伝統的な日本建築には、5つの基本原則が備わり、建築の理想が完成されているとした。その中のエッセンスを抜き出してみよう。
「構造の美」構造上無意味な物は犯罪に等しい。日本の建築では、柱は柱としての構造的な意味を持っている(西洋建築では装飾的な柱が無意味に存在する)。「自然への近接性」建物の内部と庭園などの外部環境は一体となっている(障子を開け放てば、座敷と庭は連続した空間になる)。「建築は単純を尊ぶ」日本以外のどこの文明が、美しくする事は、すなわち、不要なものを捨て去ることであると示したであろうか。最も簡素なものが、いつも最も美しい。「経済性」安く作るということではない。何事も無駄にしないということである。「自然の美」面白い小石や岩石、草木の葉など、自然はそのままで美しい物を創造する。
あらためてエリスマン邸を見てみると、そこには日本建築の複数の特徴が見られることに気づく。サンルームからテラスへの自由なアプローチは縁側のように、庭と一連のつながりを持っているし、喫茶室のハイシーリングと大きな窓の間の太い梁は、天井板で隠されることなく、古民家でよく見かけるように露出しており、構造の美が生かされている。日本各地に残るレーモンドの建築物を訪れたなら、どんなところにレーモンドの哲学が生かされているのか、探してみるのも面白いだろう。