本能寺と織田信長

異人たちの足跡25 黒い肌のサムライ・弥助

映画『将軍SHOGUN』などで知られるイギリス人、ウィリアム・アダムスは、17世紀初めの日本で、青い目のサムライとして徳川家康に仕えた。しかしそれより20年も前に、実は、織田信長に仕えた黒い肌のサムライがいたことをご存知だろうか。その人は、アフリカから海を渡ってインドへ、そして1579(天正7)年に日本にやって来た。そこで主君、信長から弥助(やすけ)という日本名を与えられ、約一年半、信長の家臣として生きるという類まれな日々を過ごしたのである。運命の1582(天正10)年6月2日、弥助は本能寺にいた。そして信長を守るために、最後まで勇敢に戦ったという。悲しいことに、弥助の本名を記した記録はない。だが、2013年6月に放送された『世界ふしぎ発見』では、弥助はモザンビークのマクア族の出身で、ヤスフェという名前だったのではないかと推測されていた。

宣教師と弥助

1579(天正7)年、イエズス会の宣教師・アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、極東地域での布教活動を視察するために来日した。ヴァリニャーノは、ポルトガルから東アフリカのポルトガル領(現・モザンビーク)に寄港し、その後インドのゴアを経て日本に向かったと記録されている。ゴアは当時、イエズス会の東アジア拠点であった。ヴァリニャーノは、信頼できる黒人に身の回りの世話をさせていたが、その黒人をモザンビークから直接連れてきたのか、すでにゴアにいたモザンビークの黒人を同伴してきたのかは定かでない。

1581(天正9)年、ヴァリニャーノが時の権力者との会見を予定して京の都に入ると、宿泊先の南蛮寺には、黒人を見ようとする群衆が詰めかけた。南蛮寺とは、当時のキリスト教会を指す一般的呼称であり、京の南蛮寺の場合は、被昇天の聖母マリア教会というのが正式名称であった。狩野宗秀筆の「都の南蛮寺図」によると、三層楼閣風の建物で、二層目にはバルコニーがついていたようだ。南蛮寺の一筋先には、本能寺があった。信長は京に滞在する折に、この本能寺を宿所とすることを常としていた。

信長、黒坊主に会う

信長に関する記録資料である『信長公記』には、「切支丹国より黒坊主参り候」「年齢26-27才」「十人力の剛力」「牛のように黒き体」などと記載されている。また『松平家忠日記』では、「身の丈六尺二分(182.4cm)」「身は炭のごとく」と述べられている。ヴァリニャーノが同伴した黒人の噂は、瞬く間に京の町を駆け巡った。ほとんどの日本人にとって、黒い肌の人間を見るのは初めてのことだったのである。誰もが興味津々だったのだろう。ヴァリニャーノとの接見は数日後であったにもかかわらず、信長は我慢しきれず、南蛮寺に使者を送って会見の予定を早めている。

信長は、目の前にいる大きくて黒い人を仔細に見つめた。しかしその肌の色が天然のものだということを信じられず、上半身の着物を脱がせて体を洗わせた。すると、こするほどに、その肌はますます黒光りした。そこでようやく信長は納得したという。

信長は、この大きな人を大変に気に入り、ヴァリニャーノから譲り受けると、弥助と名付けて正式な武士の身分に取り立てた。弥助は帯刀を許され、住まいと着物を与えられて、信長のそば近くで仕えることになった。

1582(天正10)年6月2日「本能寺の変」

早朝の本能寺に、明智光秀の兵たちが密かに侵入した。刺客が放った矢は、ちょうど手と顔を洗い終わり、手拭いでからだを拭いていた信長の背中に刺さった。信長はその矢を自分で引き抜き、急いで部屋の奥に戻ると、弓矢を手にして表に出てきた。騒ぎに気づいた宿直の武士たちが信長のもとに駆けつけ、一斉に刀を抜いた。乱闘が続いた。すでに桔梗紋(明智の家紋)の旗が本能寺を囲んでいた。信長は多勢に無勢であることを悟った。弓を槍に持ち替えて、なおもしばらく戦っていたが、次に腕に傷を負うと、静かに自分の部屋に入っていった。そして戸を閉め、信長は再びその姿を現すことはなかった。ある者は自刃したと言い、またある者は自ら火を放って焼け死んだと言った。

その日も弥助は信長に近侍していた。敵の襲来に対して、弥助は長い刀を取って勇敢に戦った。そして、信長が自害した後は二条御所に走り、避難していた信長の嫡男・信忠のもとで戦った。しかし最後は明智の兵に刀を差し出して捕虜になったという。

弥助のその後

明智方は京の町で徹底的な残党狩りを行い、発見された者は惨殺された。しかし弥助の処置について光秀は、「あれは動物であって何も知らず、日本人でもないから殺さぬ。切支丹の教会に返しておけ。」と指示したという。この発言は差別的な発言に見せかけて、実は弥助を助けるための方便であったとする見方がある。残念ながら、その後の弥助の消息について語る資料はない。

『世界ふしぎ発見』の中では、モザンビークの人々が、日本の着物に似たキマウを着ている様子が映された。弥助は、もしかしたらもう一度海を渡り、日本で着ていた着物を故国に持ち帰ったのかもしれない。

本能寺の今・昔

本能寺は、この事件の後、豊臣秀吉の命で現在地に移転した。地下鉄「京都市役所前」駅から徒歩2分の現・本能寺は、ビルに囲まれたダウンタウンにある。

境内、および本堂は拝観自由である。だが平日の昼間にここを訪れる人は少ない。私は静かに戸を開け、誰もいない本堂に上がった。そして信長と、祖国から遠く離れた日本でサムライになった弥助の冥福を祈った。信長の供養塔は、本堂の奥にある。

ところで、信長が果てた本能寺は、そこから約1km西にあった。今日ではその歴史を語る痕跡はないが、2013年6月、かつて本能寺の外塀のあった付近に、信長茶寮(しんちょうさりょう)が開店した。小さなビルの中に、信長をコンセプトにしたレストランやカフェ、バーなどが入っているアミューズメント施設である。

どんなところなのかと思い、カフェに入ってみた。案内されて地階に下りる。すると盆山(ぼんさん)と称する丸い石が、祭壇に祀ってあった。周りには絵馬なども掛けてあり、まるでお寺か神社のようである。店の人の話では、それは安土城の天守閣にあった信長の身代わり石・盆山を模して作った石で、信長のファンが集まって、ここで時々お参りするのだそうだ。

この店の総合プロデュースには、『北斗の拳』の漫画家・原哲夫が関わったという。現在、原氏は信長を題材にした『いくさの子』をコミックゼノンに連載している。破天荒な信長の一生を描いた作品で、迫力ある戦闘シーンが人気を集めている。

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