ホテルイタリア軒は、新潟市の有名な歓楽街、古町にほど近い老舗ホテルである。今では大手ホテルチェーンに属してはいるものの、明治時代創業の屋内には、古き良き時代の面影が漂っている。
ロケーション
新潟の商業地区は、JR新潟駅のある駅前と、信濃川にかかる万代橋を中心とした万代、そして花街が残る古町に分けられる。ビジネスホテルの多くは駅前に集中しており、バスなどの便もよいが、味わいがあるのはやはり古町界隈である。日暮れとともに、通りにはやわらかい灯明が一つ、また一つと灯り、黒い板戸やなまこ壁の土塀が続く路地に、人影が現れる。運が良ければ、夕闇にしゃなりしゃなりと歩く芸妓さんを見かけることもある。イタリア軒はその、古町の中心にあるのだ。
では、古町の位置を確認してみたい。まず市内地図を広げて信濃川を探す。その南側にJR新潟駅、北に新潟島と呼ばれる島があって、いくつもの橋がかかっている。JR新潟駅と直結している橋が万代橋で、その道を北にたどっていけば、三越とNEXT21という商業ビルが向かい合う交差点に出る。ここが古町地区の中心である。次に新潟島の中にある白山神社を探そう。新潟の町は白山神社を基点として、一番から十一番までのブロックに分けられ、古町の西側を西堀通、東を東堀通と呼ぶ。イタリア軒は西堀通七番町、つまり古町の西で、白山神社から七ブロック下手に位置する。このように見ていけば、住所から自分の行きたい場所の見当がつくであろう。
ちなみにNEXT21と三越は西堀通五番町、高級料亭や花街が集まっているのは、古町通八番町、九番町辺りである。
ゲストルーム
どことなく古めかしい雰囲気は否めないが、清潔で機能的な客室であった。ホテルのある西堀通は、寺町とも言われるほどお寺が多い。窓からの近景は寺社の屋根、また少し遠くには、港を見ることができる。
ホテルイタリア軒
ホテルを開業する以前、イタリア軒の前身である西洋食品店が創業したのは、1874(明治7)年7月のことであった。営所通一番町に、新潟に住む、たった一人のイタリア人、ピエトロ・ミリオーレ(Pietro Migliore)がその店を開いた。家畜の死穢を忌む仏教の教えが浸透していた当時、ほとんどの日本人は四つ足の動物を口にしなかった。したがってミリオーレの商売が、保守的な新潟の人々に受け入れられるまでは、幾分時間を要した。しかし県令(1886以前の知事職)楠本正隆が開店資金の援助をしたり、東京や横浜からの賓客を牛鍋でもてなしたりしたこと、また地元民の尊敬を集めていた医師、竹山屯が、栄養学的見地から牛肉や牛乳の摂取を推進したことなどが広まって、新潟の人々も、次第に肉を食べるようになっていった。こうして店は繁盛し、ミリオーレの商売は順調に伸びていった。
だがその矢先の1880(明治13)年、新潟の町は大火に包まれた。ミリオーレは逃げ切ったが、店は全焼してしまう。失意のミリオーレが帰国を考えていたとき、周囲の人々はミリオーレを引き止めた。この頃までには、陽気で親しみやすいミリオーレは「ミオラさん」と呼ばれる新潟の人気者になっていた。そして有志の人々のバックアップを受けて、西堀通の現在地に、今度は本格的な西洋レストランを開店することになる。1881(明治14)年に建築されたレストランは、ミリオーレの母国の名を取って、イタリア軒と命名された。瀟洒な三階建ての洋館は、その堂々とした外観が、ひときわ人目を引いた。
ピエトロ・ミリオーレ
そもそも何故、ミリオーレは新潟で暮らすことになったのだろうか。1871(明治4)年10月にフランスのスリエ曲馬団が来日し、横浜を皮切りに、各地で興行した。スリエ曲馬団はその後も、1874(明治7)年春に再来日し、まず浅草、4月に横浜、そして5月には新潟湊町で興行した。その座員の中に、食事のまかない夫として加わっていたのが、ミリオーレであった。スリエ曲馬団の記事は、横浜毎日新聞に残っている。要約すると、『直径80mもある巨大な傘幕の下で、華やかな衣装をまとった男女が、音楽に合わせて、技を競い合うように舞い踊った。ある者は電光石火のごとく馬を馳せ、またある者は空中を翻り、輪を抜け、高所にある綱の上を飛び回った。』
ミリオーレは、不幸にも新潟で重病または怪我に倒れ、一行から置き去りにされた。言葉もわからず、体も思うようにならないミリオーレの世話をしたのは、スリエ曲馬団が新潟興行で雇っていた日本人、権助とその娘おすいであった。二人の看病でミリオーレは健康を取り戻し、やがてミリオーレはおすいと結ばれた。ミリオーレは西洋食品店、後にレストランイタリア軒を開業し、おすいもそれを手伝った。しかし、ミリオーレが成功したのを見届けると、おすいはミリオーレの元を去ってしまう。
1912(明治45)年、ミリオーレは望郷の念やみ難く、盛業中のイタリア軒を売却してイタリアに帰国した。その後、1920(大正9)年11月に故郷のトリノで亡くなったという。
新潟市内を散策するなら、古町や西堀通の町並みを楽しみ、夜は美味しい魚と日本酒で乾杯したい。そして、知る人ぞ知るイタリア軒の秘密、明治の初めに、一人新潟で逞しく生きたイタリア人、『ミオラさん』のことを思い出しながら、ほんの一口、牛肉を召し上がれ。