箱根旧街道

異人たちの足跡 14 エンゲルベルト・ケンペル

箱根峠は、京都と江戸を結ぶ東海道の中でも、難所中の難所であった。厳しい上り坂が続く過酷な街道は「天下の剣」と呼ばれ、一日十里の旅程も、箱根峠では八割しか進めない。広重は、そんな箱根八里の険しい峠道をデフォルメした浮世絵、箱根湖水図を描いている。現在は、車ならたった一時間で快適な峠越えができる。旧東海道(県道732号)と平行して走る国道1号線はバスの便もよい。しかし、それでは足の裏に感じる地面の感触や、湿った土の匂い、杉木立のひんやりとした日陰などを感じることはできない。そこで、昔ながらの石畳を歩いて、江戸時代の旅の雰囲気を味わってみた。

箱根旧街道ハイキングルート

箱根旧街道は旧東海道の一部であり、箱根湯本−元箱根間は、国道1号線に沿ってハイキングコースが整備されている。箱根峠は標高835m、元箱根(芦ノ湖畔)が800m、箱根湯本が108mである。したがって、元箱根から箱根湯本に向かって歩けば、(ほとんど上りの苦しみを味わわずに)700mの高低差を下って行くことができる。ただし、下り道は膝に負担がかかるので、スピードを上げすぎないよう注意が必要だ。道は大小不揃いの石畳で覆われ、かなりの凸凹がある。着地を誤ると、足を取られてバランスを崩すのでゆっくり進みたい。一説には、これは旅人の足を遅らせるための、江戸幕府の仕掛けだったとも言われている。

現代の時間感覚を離れて、その道は今も、鬱蒼と茂った杉木立の中を抜けていく。森の緑の匂いと、苔むした岩間を流れ落ちる清水の音、そして幾多の人々の足で丸くなった石の感触を踏みしめて歩くのは心地よい。お勧めのルートは、元箱根からスタートして、箱根独特の石畳を歩き、わずかな上りの後、寄木造りで有名な畑宿まで行く長い下り坂のコースである。途中、休憩を挟んでも約2時間半の行程である。畑宿からは湯本または小田原まではバスを利用できる。

ケンペルの江戸参府

1691(元禄4)年とその翌年、二度に渡りこの道を通り、鎖国下の日本の姿を目にした外国人がいた。公式に貿易を許されていたオランダ商館は、1633(寛永10)年以降、年に一度将軍に拝謁して献上品を贈ることを定例としていた。長崎から江戸に向かうオランダ商館一行は、大名行列のように街道を歩き、宿場、宿場で休んだ。オランダ商館に雇用されていたドイツ人医師、エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer)は、商館長とともに江戸城に参内し、五代将軍、徳川綱吉に拝謁して、その人柄に触れた数少ない外国人の一人である。医師であり博物学者であったケンペルは、江戸参府の往復にも鋭敏な観察眼を光らせ、箱根旧街道では、その自然と独特の風景を詳細に記録していた。

ケンペルの研究成果

ケンペルによる日本研究の成果は、帰国後の著書に発表された。1712年の『廻国奇観』Amoenitatum Exoticarum Politico-physico-medicarumでは、箱根草(当時は自生していた)について、「ここでよく見かけるものは、他の土地のものよりはるかに薬効が高いとして珍重される。誰もがこれを持ち帰り、自宅の薬籠に蓄える」と記述した。またケンペルの死後に出版された1727(享保12)年の『日本誌』The History of Japanには、富士山について、「広がった裾野からだんだん先が細っていく円錐形のその姿、それはまさに世界で最もすばらしい山である」と書き、箱根宿は「冬は空気が冷たく、重くかつ湿っぽいが、夏には静養に最も敵う土地である」と述べている。『日本誌』は18世紀のヨーロッパでベストセラーとなり、モンテスキューやヴォルテール、カントなどがケンペルの記述を引用した。日本に開国を迫ったアメリカのペリー提督が、来日前に繰り返し読んでいたのも、ケンペルの著書であった。

箱根旧街道ハイキングのハイライト

1 ケンペル・バーニーの碑

元箱根近くに、二人の外国人、ケンペルとバーニーの碑が建っている。避暑地としての箱根のすばらしさを西洋に紹介したケンペルと、ケンペルの『日本誌』に感銘を受け、箱根の自然保護を訴えたバーニーである。シリル・モンタギュー・バーニー(Cyril Montague Birnie)は、1886(明治19)年にイギリス人貿易商の父とともに来日し、1958(昭和33)年に横浜で没した。元箱根のバーニーの別荘跡地は、現在、小さな公園となっている。

2 お玉が池

元箱根を出て、杉木立に囲まれた石畳を20分ほど歩くと、『お玉が池』の表示を目にする。旧街道からは少しはずれるが、寄り道に値する美しい池があるのでお勧めしたい。昔、この場所で箱根関所にまつわる悲劇が起きた。1702(元禄15)年、伊豆の実家に帰りたい一心で、江戸の奉公先を抜け出して、箱根峠まで辿り着いた娘がいた。だが関所札がないので関所を通ることはできない。そこで、脇の森の中を抜けようとした娘は、近隣の村人に見つかってしまった。関所破りは極刑(磔)である。審議の結果、娘は情状酌量されたものの、一つ軽い獄門(さらし首)に処された。お玉がつかまった場所の近くにあった池を、いつしか人々はお玉が池と呼ぶようになったという。池の畔まで下りて、穏やかな水面に映る山陰を見ると、お玉の悲劇に心が痛む。今はお玉の魂が癒されて、この池の水面のように、穏やかであってほしいと願う。

3甘酒茶屋

まだまだ休憩には早いと思うかもしれないが、ここで一服しよう。ここはまさに、江戸時代の弥次喜多の雰囲気を楽しめるからだ。藁葺屋根の古民家の戸を開けると、店の中は囲炉裏の火で温かい。天井板はなく、趣のある太い梁がてかてかと黒光りしている。店の中は、昔ながらの広い土間と板の間、そして小さな厨房があるだけのシンプルな造りである。お茶と団子にほっこりとしたら、隣の小さな展示館を見てみよう。江戸時代の箱根街道の様子を知ることができる。

4畑宿

畑宿のシンボルは、道の両脇にあるこんもりとした一里塚である。これは旅人に距離を知らせるための目印として、江戸時代の初期に幕府が置いたものである。畑宿の一里塚は、江戸日本橋から数えて二十三番目にあたる。一里(約4km)ごとにある23番目の一里塚であるから、畑宿は江戸から約92kmの距離にあるとわかる。またここは寄木細工の里として知られ、工房と店舗が軒を並べている。寄木会館では寄木細工の実演を見ることができるので、のぞいてみると面白い。

エンゲルベルト・ケンペル

ケンペルは1651(慶安3)年にドイツのレムゴーに生まれた。16歳で故郷を離れると、ドイツ、ポーランド、オランダ、ロシア、スウェーデンなど、諸国をめぐって勉学した。その間に、医学、歴史学、博物学を修め、医官として日本の地を踏んだのが、1690(元禄3)年9月である。長崎に上陸したケンペルは、1692(元禄5)年10月まで出島で暮した。医官としての仕事の傍ら、日本の植物、貝類、昆虫、動物を集めて標本を作り、また歴史、政治、生活習慣や宗教について丹念に調べた結果を膨大なメモに残した。さらには、日本の様々な美術工芸品を収集し、天然資源のサンプルを採取することまで行った。ケンペルは集めた情報を裏付ける収集品を、すべてドイツ本国に送り、半生をかけて整理するつもりだったようだ。しかしケンペルの没後、それらは大英博物館、および大英博物館から分かれたロンドン自然史博物館に収蔵された。

箱根旧街道は、江戸時代の旅人が辿った道である。大名行列が通り、ケンペルが馬で歩き、弥次喜多が旅した石畳。今日の日本において、400年前と変わらない道と景色を体験できる場所は数少ない。ぜひ一度、箱根で時間旅行を体験してみてはいかがだろうか。

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