福井市小丹生町の海岸に「弁慶の洗濯岩」と呼ばれる浸食海岸がある。
地質学的に言うと、泥岩と砂岩の堆積層が波で浸食され、柔らかい泥岩層が消えて固い砂岩層が残ったものだ。
砂岩に施された波の彫刻は見るからに美しい。
霜月の日本海が徐々に見せ始める冬の予感は、岩にぶつかり砕け散る波のしぶきに潜んでいる。同じような烈しい波は年中あるだろうが、真冬に越前海岸に打ちつける波の様は狂気そのものなのだ。
だからこそ晩秋の日、わずかな晴れ間が岩に与えている温もりを掌に感じながら、刹那の小春日和を私は愉しんだ。
昔、源義経と弁慶が追手から逃げのびる途中、弁慶が汚れた衣をこの海岸の岩で洗ったという逸話にこの名前が由来するという。
いくら弁慶が大男だったとはいえ、この岩を洗濯岩にするには岩が大き過ぎようというものだ。
しかし、歴史の誇張は歌舞伎の見得のようなものだから罪がない。
それにしても政治が不安定になると世はたやすく乱れる。
後白河天皇の姦計にまんまとはまった源義経。
武士として政治家として才能がありすぎたのである。
平家滅亡を成し遂げた屋島の戦い、そしてそれに続く壇ノ浦の戦いにしても、頼朝が派遣した源氏側の他軍勢の手際の悪さを見切って、義経が率いる自身の軍を彼の思うがままに動かしたまでのこと。
当然彼が獅子奮迅の働きをすることになり、義経軍は平家から三種の神器を奪還して京の都に凱旋した。
これを後白河院はあえて利用。
棟梁頼朝への連絡無しに頼朝の配下の義経を検非違使に任命する。
頼朝の面目丸つぶれを狙った。
さらに平家掃討の戦に加わった郎党からは報償を義経が独占することにあからさまな不満と批判が噴出した。
各方面の利益を調整するのが政治である理は古今変わらない。
後白河も頼朝もそういう点では老獪な政治家であった。
義経は一方、この時若干27歳。
若すぎ、聡明すぎ、そして純粋すぎた。
2年余の逃亡を余儀なくされた義経。
彼を追う暗殺者たちは容赦なかった。
散り散りに隠れていた義経の郎党はことごとく発見され、女子供の区別なく惨殺。
義経は弁慶と数名の手下の武士を伴い山伏の格好に扮して、山を谷を海岸の崖沿いを逃げに逃げた。
弁慶が汗と泥にまみれた山伏の法衣を洗っている間、義経はこの岩に腰掛けて、はるか水平線のかなたを眺め見ていたのだろうか。
彼の眼に映る日本海の晴れやかな薄い青。
愛と幸いの薄い青年武士義経の短い一生は、やがて奥州の地に閉じる。