日光東照宮は、豪華さという点において、また社殿の構成においても、それまで日本に存在していたどの社寺とも異なる建造物である。なぜ、どのような経緯でこのような特殊な建物が造られたのか、そしてその背景にはどんな思想が横たわっているのか、ガイドブックより、少しだけ奥の世界に分け入って日光東照宮の秘密を探ってみたい。
徳川家康の秘策
江戸幕府初代将軍・徳川家康の築いた幕藩体制は、士族社会を維持・存続させる堅固な社会システムとして、15代将軍・徳川慶喜までの260年間、徳川家に受け継がれた。家康は1542(天文11)年に岡崎城(現在の愛知県岡崎市)で生まれ、1616(元和2)年駿府城(現在の静岡県静岡市)で没したが、葬儀は家康の指示により、極秘の儀式を経て、厳密な手順で執り行われたという。『本光国師日記』によれば、家康の遺言は次のようなものだったという。「遺骸は久能山に納めて神にまつり、葬礼は増上寺にて行い、三河の大樹寺に位牌を立て、一周忌も過ぎた頃、日光に小さい堂を建てて我が霊を勧請せよ。」家康はなぜ、これほど細かい指示をしたのだろうか。宮元健次の『江戸の陰陽師』によれば、それこそが徳川260年の歴史を作り上げた秘技だったという。
太陽の道と北極星
古代中国では、北極星は天帝の星と言われ、天の中央に座して満点の星々を支配すると考えられていた。家康は生前、神道、仏教、儒教、道教、陰陽道などに習熟しており、それらを駆使して自らの神格化と幕府の守護を画策していたようだ。そこで晩年は、生誕地である岡崎、不死に通じる富士山、政治の中心である江戸城、そして墓地となる日光を結ぶラインに秘技を込めるための計画を練っていた。
まず、生誕地・岡崎と最初の埋葬地・久能山を結ぶラインは、正確に東西に一致する。日の出と日の入りを生死と考えた場合、これは死と再生のプロセスを象徴したラインであると考えられる。次に、江戸城と日光を結ぶラインを引くと、これは南北に一致する。すなわち政治の中心・江戸城から見ると、天帝の星である北極星の位置に日光が存在するのであるから、将軍の背後には、家康が天帝として存在するという構図となる。最後に葬儀の行われた久能山と最終的に家康が埋葬された日光東照宮を結ぶ。このライン上には富士山(不死の山)がぴたりと重なり、家康の肉体は滅びても、魂は死なずに日光にとどまるという暗号になる。
日光東照宮を設計・装飾した3人のデザイナー
家康再生のプログラムを完成させるべく、日光東照宮造営に関わったデザイナーが3人いた。遺言に則って葬礼の秘技を順行した天海僧正、東照宮の無数の彫刻デザインを手がけた狩野探幽、そして東照宮全体のランドスケープデザインを仕切った小堀遠州。この3人は、東照宮のグランドデザインや彫刻、建造物などに、様々な工夫を凝らし、神として再生した家康を祀るための前代未聞の社を作り上げたのである。
天海僧正の秘技
天海(1536-1643)は関東天台宗の総帥の座にあり、山王一実神道、中国の陰陽思想や道教にも通じていた。また、家康からの信任厚く、幕府の朝廷政策や宗教政策に意見をする立場にあった。家康は熱心な阿弥陀信仰者であったことから、通常ならば、死後は極楽浄土へ往くことを望んだはずである。しかし、それでは神として現世に君臨し続けることはできない。家康は自分の成仏を諦める代わりに、神としての再生の儀式を受けて、現世にとどまることを選んだという。江戸を守護し、幕府を存続させて天下泰平を保つこと、それが家康神格化の目的だった。天海はいったん埋葬された家康の遺体を久能山から日光に移し、極秘に東照大権現として祀る儀式を行った。
狩野探幽の彫刻デザイン
狩野探幽の(1602-1674)は、江戸時代の狩野派を代表する絵師である。山水、花鳥、人物など幅広い作域をもち、1617(元和3)年からは幕府の御用絵師として活躍した。絵の技術もさることながら、探幽は花鳥、動物、霊獣などに込められた深い意味あいを熟知していた。彫刻として東照宮を飾る動植物やその数、配置などを計算して、神聖な力を引き出し、それらがもたらす影響力をフルに活用したとされる。東照宮がたぐいまれな建造物になったのは、そこに秘められたパワースポットとしての仕掛けがあったからに他ならない。ではその仕掛けとはどのようなものだったのだろうか?次の項では、個々の彫刻に隠された秘密について見ていこう。