相国寺塔頭・慈照寺には、銀閣と錦鏡池を中心とする美しい庭がある。だが銀閣という高楼は、これまでのところ銀色に塗られていたという証拠も記録もない。それなのに何故、銀閣と呼ばれるようになったのだろうか?識者によれば、銀閣とそれを取り巻くしつらいのすべてが、仲秋の名月を賞でるために作られたからだという。金閣が陽光に照らされて黄金色に輝く楼閣であるのに対し、月光を浴びて、静かに闇の中に浮かび上がる楼閣を、「銀色に輝く楼閣」、すなわち「銀閣」と表現したのであろうと推測されている。
月見
旧暦八月十五日の月を十五夜、九月十三日の月を十三夜と呼び、江戸時代の半ば頃から、庶民も月見の行事をするようになったという。それ以前、平安時代に貴族の間で行われていた月見は、直接月を見るのではなく、池や杯に月を映して間接的に行う月見であった。水面に映った月を見て和歌を詠み、管弦の宴を催した平安貴族に倣い、室町幕府第八代将軍・足利義政(1358-1408)は、東山の山荘で、最高の月見の宴を開こうとした。
月光と銀閣
銀閣の造営に並ならぬ情熱を傾けていた義政であったが、実は銀閣の完成を待たずして亡くなった。義政が思い描いていた銀閣の月見とはどのようなものだったのか、『京都の空間遺産』(大森正夫著)とNHK BShi『銀閣よみがえる〜その500年の謎』を参考にしながら推測してみたい。
初めに、銀閣一層目の落縁に座り、月待山から月が昇るのを待つ。コンピュータの計算によると、山の端に月が昇ってから、銀閣の屋根の庇に月が隠れるまでは、ほんのわずかな時間だったことがわかっている。義政は月を追いかけるように銀閣の二層目に上り、花頭窓の障子を開けて、錦鏡池に映る月を眺める。月は池の水面をゆっくりと動き、やがてその姿を消す。時を見計らって、銀閣の二層目から直接伸びていた外回廊を通り、隣接する会所に移動する。銀閣の北東にあったとされる会所にて、和歌を詠んだり、香を楽しんだりしながら、空に輝く満月と、月光に浮かび上がる銀閣を見ようとしたのではないだろうか。
銀閣の建築様式
銀閣は二層の楼閣で、初層には板敷の仏間と畳敷の二間があり、東側に落縁が付属していた(書院造り)。上層は黒漆を塗った板敷の一間のみで、花頭窓から柔らかい光を取り込んでいた。中央には金の観音像が安置されている(禅宗様)。不思議なことに、この建物の初層は東向きだが、上層は南向きなのである。この点については、今も謎が解けていない。2009年の解体調査によると、東山殿の様相は、創建当時と現在とでは、大きく異なっていたという。銀閣上層の外壁は、白土で純白に塗装され、軒下は極彩色の亀甲模様や条帯模様などで飾られていたというのだ。白壁の金閣は、月灯りの元で銀色に輝いていたのであろうか?
銀閣寺の歴史
銀閣寺の起源は、将軍を退いた足利義政が、隠棲の場として築いた山荘・東山殿である。一方の金閣寺は、義政の祖父で、第三代将軍の足利義満が、政庁兼迎賓館として造営した北山殿である。歴史上の解釈では、義満が政界の勝者とするならば、義政は脱落者という位置づけになっている。義政は、政治の世界から逃げるように将軍職を辞し、東山殿で趣味の世界に生きたと言っていいだろう。
しかし、文化人としての義政は、日本人の美意識を枯淡の世界へと転換させ、東山文化を築くほどの傑出した人物であった。教養高く、芸術に対する審美眼も鋭く、同朋衆という専門的な芸能集団を重用した。さらに、作庭や建築に関する知識や見識も相当なものだったという。東山殿造営に当たり、義政は名だたる寺や庭園から、名木や形の優れた庭石を強引に奪い取った。そして自分の美意識を具現化した最高のものを作ろうとしたのである。
ところが義政は、銀閣の完成を間近にして病に倒れた。1490(延徳2)年、銀閣に一度も登楼することなく56才の生涯を閉じ、東山殿は禅院に改められた。
相国寺鹿苑院主(金閣寺の住職)の歴代の日記『鹿苑日録(ろくおんにちろく)』に記されているところでは、1615(元和元)年、銀閣寺は「梵宇一新、新奇景観」であったという。この時、土砂に埋もれた池が再建され、銀閣の隣には、独特の枯山水(後述の砂盛)が築かれた。
銀閣寺の上下二段の庭
銀閣寺の庭は、西芳寺や金閣寺の庭と同様に、上段の枯山水と下段の池泉回遊式庭園の二段構成になっている。これは、禅僧・夢窓疎石が、西芳寺に作庭した修禅の庭を模したものである。西芳寺の上段の庭は、山崩れで露出した古墳の石で築かれたものである。夢窓疎石はこの庭で座禅を組み、禅機を探る試みとした。しかし義政は、西芳寺をモデルにした東山殿において、浄土寺の墓地を無断で使用した。浄土寺は義政に、「墓所を侵すとは仏罰に値する」と抗議文を送ったが、無視されている。義政は、おそらく、東山殿造営は自分の美意識の発露であるという絶対の自信を持ち、仏罰を受けてでも完成させるという思いで、この計画を遂行したのであろう。
不思議な砂盛
銀閣の隣にある向月台(こうげつだい:円錐を切り落としたような形の砂盛)と銀沙灘(ぎんしゃだん:波打つような砂の基壇)が初めて記録に登場するのは、1780(安永9)年の都名所図絵においてである。この時の向月台は平坦な渦巻き状の砂紋に過ぎなかった。1799(寛政11)年の都林泉名勝図絵では、わずかに隆起した向月台が見られる。さらに1864(元治元)年の花洛名勝図絵になると、現在のように円錐状の砂盛になっている。つまり、この不思議な造形は、「(ローマではないが)一日にしてならず」だったのだ!
このシリーズについて
1339(延元4 /暦応2)年、夢窓疎石は西芳寺に、上下二段の構成を持つ庭を築造しました。下段の優雅な池泉回遊式庭園と上段の厳しい枯山水は、当時はすばらしい対比を見せていたことでしょう。700年近い歳月は、その庭を大きく変貌させました。今では美しい苔が一面を覆い、この庭の新たな魅力を引き出しているようです。
このシリーズでは、上下二段の構成を持つ3つの庭を巡り、それぞれが作り出す美的空間を鑑賞していきたいと思います。
1 西芳寺:禅僧・夢窓疎石(1275-1351)が築庭した「苔に覆われた修禅の庭」
2 鹿苑寺金閣:足利義満(1358-1408)が監修した「金の楼閣と饗応の庭」
3 慈照寺銀閣:足利義政(1436-1490)が監修した「銀の楼閣と月見の庭」