日光 西六番園地

異人たちの足跡 23 T. B. グラバー

Tomoko Kamishima   2012/11/19によって

『追い求めた者だけが知る。鱒釣りはコンマ一秒の美学』   

アーノルド・ギングリッチ

『釣りとは、清浄な気で魂を浄めることである。逆心を鎮め、ひらめきを呼んで、うぬぼれを排し、また痛みを和らげて、邪心を除く。これ、すなわち人の道に通ず。魚影の前に何人も甲乙なし。』 

ハーバート・フーバー(第31代アメリカ大統領)

かつて日光中禅寺湖畔の一等地に、選ばれた者たちの夏の社交場、東京アングリング・エンド・カンツリー・倶楽部(TACC)のクラブハウスがあった。今日、その栄華の跡が残る公園が、西六番園地と呼ばれている。TACCは1925(大正14)年に在日外交官や皇族、政財界の代表者などで結成された社交クラブであった。メンバーは、中禅寺湖のクラブハウスに集まって会合を開き、明るいうちは鱒釣りやゴルフを楽しみ、夜はダンスパーティーに興じた。クラブハウスは中禅寺湖畔の絶景を望む一等地で、しかも日光の中心部につながる幹線道路沿いにあって、大変に便がよかった。しかし、この地に最初に目を付けたのは、TACCのクラブメンバーではない。TACCを設立した起業家のハンス・ハンターが、クラブのために買い取ったのは、ある老紳士の別荘跡地であった。その紳士とは、晩年中禅寺湖での釣りを心から愛した元長崎商人、トーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover)である。

T. B. グラバー

スコットランドのフレイザーバラで生まれたグラバーは、日本では長崎の観光名所、南山手のグラバー園でその名を知られる。ジョン・ルーサー・ロングの小説『蝶々夫人』と、その小説を元にしたプッチーニのオペラ『蝶々夫人』は、グラバー夫人、ツルとの共通点が多い。1859(安政6)年に21才で来日して、ジャーディン・マセソン商会(イギリス極東貿易の中心企業)の長崎代理店を引き継ぐと、グラバーは成功者の階段を瞬く間に駆け上がった。グラバー商会は、1866(慶応2)年頃からは貿易業の枠を超えて、企業規模を拡大していった。輸出入業から投機的な事業に進出し、利益は急上昇の後、瞬く間に下降線をたどった。そしてついに、1871(明治4)年に、グラバー商会は解散、破産整理に追い込まれた。

東京でのグラバー

複雑多岐に渡っていたグラバー商会の負債整理は、1877(明治10)年まで続いた。その間、グラバーは高島炭坑の経営に残留して黙々と働き、1874年(明治7)頃には、個人的な債務返済は、完了していたようだ。そして岩崎弥太郎の計らいで、グラバーは三菱の顧問となって東京に居を移した。また、1884(明治17)年、ノルウェー系アメリカ人コープランドの経営するビール工場、スプリングバレー・ブルワリーが倒産すると、日本のビール需要を見込んだグラバーは、出資者を募って早速これを買収し、ジャパン・ブルワリー・カンパニーを設立した。グラバーはドイツから醸造技師を招き、最新式の機材を投入して、1888(明治21)年、ついに国産新ビール、キリンビールの販売にこぎ着けた。グラバーの予測は当り、ビールの売り上げは順調に伸びて行く。ラベルの麒麟は、1889(明治22)年に漆工芸家の六角紫水が、太宰府天満宮の麒麟像を元に、グラバーのヒゲをイメージしてデザインしたものであると言われる。

グラバーと日光

ジャパン・ブルワリー・カンパニーの出資者の一人で、司法省の法律顧問だったウィリアム M. H. カークウッド(William Montague Hammett Kirkwood)は、1887(明治20)年に外国人として初めて日光中禅寺湖に別荘を持った。グラバーは、カークウッドとの交友から、日光へ足を運ぶようになったようだ。1893(明治26)年には、グラバーも中禅寺湖畔の大崎に自分の別荘を建て、地元の学校で教鞭をとる大島藤三郎と、しばしば釣りを楽しんだ。一日の仕事を終えて疲れて帰ってきた大島を捕まえて、グラバーはすまなそうに釣りに誘っていたという。やがて大島の次男久吉が成長すると、グラバーのお供は久吉に変わった。1897(明治30)年頃に、久吉がグラバーを、中禅寺湖上流の湯川の鱒釣りに案内した。奥日光の美しい森と透き通る水は、すぐにグラバーを魅了した。それは、遠く離れた故郷のスコットランドを思い出させたのかもしれない。

ブルック・マスの放流

グラバーは奥日光で釣りを楽しみながら、考えていた。この地にマスを定着させたい。1902(明治35)年2月、グラバーはアメリカのコロラド州から25,000粒のブルック・マスの卵を輸入した。中禅寺湖漁業組合が協力して卵をふ化し、5月に稚魚を放流したものの、その年の9月28日、巨大な台風が日光全域を襲った。台風が去った後、無惨にもマスは全滅していた。1904(明治37)年、グラバーは再度コロラドから魚卵を輸入した。二回目のふ化、そして湯川への放流は無事に行われ、ブルック・マスは湯川で繁殖していった。

事務的な手続きや現地での手配を行ったのは英国大使館員のハロルド・パーレットであったため、日光のブルック・マスはパーレット鱒と呼ばれるようになった。だが実は、これはグラバーの発案と出資によって放流されたものであった。

グラバーはまた、日本で初めて疑似餌を用いるフライ・フィッシングを行ったことで知られる。そのため釣り人たちの間では、日光はフライ・フィッシングの聖地と言われている。

西六番園地

1940(昭和15)年8月17日深夜、TACCのクラブハウス、西六番別荘は火焔に包まれて一夜のうちに失われた。火事の原因は、スイッチを切り忘れた大型コンデンサーのオーバーヒートだったと言う。前の晩、クラブではダンスパーティーが開かれていた。日光の社交場TACCは、突然終焉を迎えることとなった。

高く突き出た石造りの煙突が、大崎バス停の湖畔側に見える。それが西六番園地の目印である。公園内にはベンチやテーブルがいくつもあって、ピクニックに最適である。湖畔を散歩した後にベンチに腰掛ければ、適度な木陰と湖からの優しい風が気持ちいい。

かつて中禅寺湖畔には、たくさんの外国人別荘があった。船着き場からボートやヨットに乗ってクルージングを楽しんだり、互いに行き来をしてお茶会や食事会を催したりしていたようだ。西六番園地に残る船着き場は、当時の避暑地の様子を彷彿とさせる。

Tomoko Kamishimaさんによって書かれました。
ジャパントラベルのメンバー

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