三重四階建ての天守閣から四方を展望すると、小田原の街が、すっぽりと土塁に囲まれていた城郭都市であった時代の片鱗を見ることができる。総延長9kmに及ぶ城の外郭、すなわち総構(そうがまえ)の痕跡が、緑の茂る小高い丘として、今も残っている。16世紀、小田原城は上杉謙信、武田信玄という二人の勇将を退け、難攻不落の城として諸国に知れ渡っていた。
小田原城の歴史
1496(明応5)年に、大森藤頼の居館を奪った北条早雲が、小田原に進出して旧構を大幅に拡張したのが原型となっている。しかし早雲は亡くなるまで韮山城を本拠とし、小田原城に入城したのは、二代氏綱以降であった。三代氏康、四代氏政の時代に増改築と外郭形成が行われ、小田原城は日本最大の中世城郭となる。
1590年、豊臣秀吉は天下統一の仕上げとして、関東の大部分を掌握していた北条氏と開戦した。秀吉は、小田原を見下ろす石垣山一夜城に陣を置き、小田原を包囲するとともに、関東各地の北条氏の支城を次々に撃破して、北条側を追いつめていった。そしてついに、三ヶ月の篭城戦の末、兵糧が尽き士気の下がった小田原城は開城した。
この戦の後、北条氏の領地は徳川家康に与えられ、腹心の大久保忠世が小田原城に入った。江戸期、歴代の将軍は、上洛の際の宿泊所として本丸御殿を利用していたという。
1870(明治3)年、徳川幕府崩壊の後、城内の建造物は取り壊され、1901(明治34)年には小田原御用邸となったが、1923(大正12)年の関東大震災で倒壊し、御用邸は廃止された。この時、建物だけでなく、石垣の大部分も崩壊した。1960 (昭和35)年より天守閣の外観復元が行われ、以後、常盤木門(ときわぎもん)、銅門(あかがねもん)、馬出門(うまだしもん)などが、漸次復元されている。
順路
お堀端通りの正面入口から入ると、馬出門、馬屋曲輪と続く。これが正式な登城口であり、外来者をチェックする番所が置かれていた。馬屋は将軍家が上洛の際に利用したもので、小田原藩の馬屋は二の丸の西側にあったようだ。堀に架かる住吉橋を渡ってすぐが、銅門である。名前の由来は、大扉の飾り金具が銅製であったことによる。門の土塀には、三角形や四角形の狭間(さま)という穴があいている。門を入り、土塀の内側を見てほしい。石積の上に、兵が歩いたり、敵を待ち構えたりできるようなスペース(武者走り)が設えてあり、狭間の脇に兵が待機していた様子が想像できる。三角形のものが鉄砲用、四角形が弓矢用である。この土塀の内部がわかるように、近くに骨組みを露出した模型が展示されている。門を入ると、道は直角に進路を変え、枡形に敵を封じ込めることができるようになっている。さらに二度、直角に進路を変えた後、常盤木門に至る。これが小田原城本丸の正門である。最も大きく、堅固に造られていた。門の傍らにある松に因み、小田原城の長久繁栄を願ってつけられた名前だという。
常盤木門をくぐると本丸跡に出る。現在、ここには天守閣のみが復元されている。
天守閣(資料館)
天守閣の内部には、復元の元になった江戸期の引図や、古文書、北条五代に関する資料、武具、刀剣、江戸期に発展した小田原の木象嵌、鋳物、細工物、櫛やかんざしなどが展示されている。江戸時代、小田原は城下町として、また東海道の宿場町として栄えた。その当時の町の様子を、コンピューターグラフィックで再現したビデオも上演されている。
小田原の街には古い町並みが残っている。北条早雲に招かれて小田原に住んだ薬商、菓子商のういろうや、漆器、木象嵌、鋳物などの伝統工芸品の工房など、往時の人々の暮らしが、今に息づいている。小田原城の基礎を作った北条早雲の『早雲寺殿廿一箇条』には、北条家の家訓として、早寝早起きや勤勉、正直、質素倹約などの道徳的信条が列挙されている。資料館に展示されている工芸品は繊細かつ精巧で、小田原の街が活気に満ちた商業都市として発展していたことをうかがわせる。廿一箇条とともに、税率を抑えて『願わくば民、豊かにあれかし』と語った早雲の心は、代々の領主に受け継がれ、500年以上の時を経てもなお、小田原に繁栄をもたらしているのだろうと思う。