ヴェルニー公園は、JR横須賀駅を出てすぐ左手の美しい西洋式庭園である。ベンチに腰掛けて潮風を感じていると、芝庭と幾何学デザインの花壇から、時々うっとりするようないい香りが漂ってくる。ヴェルニー公園は春から秋にかけて、120種2000株のバラが咲き誇るバラの名所としても有名だ。だがこの公園の一番の特徴は、すぐ目の前に停泊している横須賀港の軍艦や潜水艦であろう。
ヴェルニー公園の名前は、1865(慶応元)年に上海から横浜港に降り立ったフランス人技術者、フランソワ・レオンス・ヴェルニー(François Léonce Verny)に由来する。武家政権が崩壊しつつあった幕末の時代に来日したヴェルニーは、混乱の後の新政府成立と、急速な日本の変貌を目の当たりにした。ヴェルニーは約12年の日本滞在中、幕府から明治政府へと受け継がれた近代国家プロジェクト、横須賀製鉄所の建設と、近代造船技術の指導に尽力し、日本工学の礎を築いた。
横須賀製鉄所
ペリー艦隊の海軍力を目にした江戸幕府が、日本の海防のために創設を決意した横須賀製鉄所(後に横須賀造船所)は、完成後数々の戦艦を建造した。その後製鉄所は、海軍所有の重要な軍事拠点となる。しかし、第二次世界大戦後に米軍に接収されて以来、現在に至るまで、在日米軍横須賀海軍施設(ベース)として使われている。明治期にヴェルニーの指導で完成したドライドックは、建造からすでに100年を経ているが、今もベース内で、各種船舶の修理、整備などに使用されている。
ヴェルニーの残した造船所施設は、公園の対岸にあるベースの中にあるため、見学はできない。ただし、年に4回ある日米親善ベース歴史ツアーに参加申し込みをすると、ボランティアガイドとともに、ドライドックなどベース周辺の近代文化遺産を見ることができる(参加できるのは日本国籍を持つ人のみ。パスポートまたは写真付住民基本台帳カードが必要)
ヴェルニーの経歴
1837(天保8)年、ヴェルニーは7人兄弟の三男として、フランス南部の街オーブナに生まれた。父は製糸工場を経営する実業家で、一族は優秀な人材を輩出してきた。パリの名門エコール・ポリテクニック(理工科学校)を卒業したヴェルニーは、海軍造船工学学校へ進んだ後、フランス海軍最大の軍港ブレスト(フランス北西部)に着任。造船、製鉄、製剤、木工、蒸気機関、艦船修理、水夫の学校設置、会計および納品受理など、短期間のうちに、多岐にわたる職務を経験した。そこで得た豊富な実務経験を買われて、1862(文久2)年、中国寧波に派遣され、造船所、ドック、砲艦などを建造した。また、寧波では副領事に任命され、領事館事務もこなした。
そして1864(元治元)年の暮れ、中国での任期を終えようとしていたヴェルニーのもとに、一通の手紙が届いた。日本の徳川幕府からの依頼で、製鉄所および造船所を建設する任務を打診する内容だった。この時ヴェルニーは、28才。しかしすでに、ゼロから製鉄所建設を行うだけのノウハウを、すべて身につけていたのであった。
カフェレストラン コルセール
ヴェルニー公園にはあちこちにベンチがあって、愛を語らう人、ランチをする人、ハトに餌をやる人、ただただ港や軍艦を眺める人など、それぞれの時間を楽しんでいる。オープンテラスのあるコルセールで、お茶を飲みながらピープルウォッチングをするのも楽しい。お腹がすけば、ガレットやハンバーガー、ピザ、カレーなどの軽食から、コース料理まで味わえる。日替わりランチはメイン(その日はカツレツだった)とミニサラダ、デザート、コーヒーつきで1000円。ボリュームもあって、おいしかった。ランチは午前11時から午後4時まで、ディナーは週末のみ午後10時まで。火曜から木曜は予約制である。月曜定休。
逸見波止場衛門跡
旧横須賀軍港逸見門の衛兵詰所を移築したものである。明治末期から大正初期の建築と推定される。屋根が野球帽のように片つばになっているのが面白い。
次項では、ヴェルニーの製鉄所建設から、国産第一号の戦艦製造までの道のりと、離日後のヴェルニーについて見ていきたい。