紙。
情報伝達の、また情報記録の道具として世界の文明を支え続けてきた「紙」は人類最高の発明品とも言えよう。
わけても、唯一アルカリ性である和紙(Japanese Paper)は洋紙と違い、記録保存において長い年月に耐えうる。
平安時代の書物の原典が完全な状態で傷みもなく今日まで保存されてきていること、また世界の博物館などで貴重な歴史的文献の修復に和紙が使われていることも和紙の優秀さの証であろう。
この優れた和紙が実は、日本において越前福井がその発祥の地であるという事はほとんど知られていない。
日本における紙漉き発祥の地と言われる現越前市には、それにまつわる興味深い伝説が今に伝わっているのだ。
福井県の大河、九頭龍川は現福井市街で日野川を合流させる。
日野川ははるか上流において、その名の日野山と武衛山の間の渓谷に源を発する岡太川を支流に従えている。
今からさかのぼること1500年の昔の頃。
継体天皇が皇子として越前(福井)にいた頃だ。西暦500年頃の時代である。
岡太川の上流に宮ヶ谷という村があった。
ある日、川沿いの棚畑で村人たちが土おこしをしていると、声をかける者があった。
「この辺りでは何がとれますか。」
その涼しげな声に一同振り返ってみると、そこには今まで見たこともないような美しい女が立っていた。
つややかな髪はまとめられ、透き通るような色白の顔には頬にうっすらと紅がさしている。
羽織っている朱色の錦衣はまばゆいほどに村人たちの目を射た。
民の一人が、
「こんなとこじゃ稗(ひえ)か粟(あわ)くれえしかできね。」と答えた。
村人たちは痩せこけて、まとっているのもほとんどぼろ義である。
「そうですか。この川は急峻ですから、川沿いに田畑も十分には作れませんね。
暮らしもさぞかし大変でしょう。
皆さんは、紙、というものをご存じですか。」
「か・み? 何じゃね、そりゃ。」
女は懐から何やら白い物を取り出すと、それを広げて見せた。
皆は寄り集まるとぱちくり目をまん丸に広げてその白くて薄い物体に見入った。
村人たちには未だ見たこともない物だった。
「へえ、これが! 何に使うんじゃえ。」
「これは、墨で字をしたためるのに使います。今は木簡という木の札に書いていますが、この紙をあなた方が拵えたら、天皇もご領主も皆それを求めに参りますよ。
これを作ってみませんか。」
「そんただもん、どうやって作るんじゃえ。」
「大丈夫です。私がお教えしましょう。よくご覧になっていてくださいね。」
とにっこりほほ笑むと女は来ていた着物を脱ぎ、そばの木の枝にかけた。
腕と裾をまくると、木の枝を何本か折り川に入る。
村人たちが見守る前で女は、その枝に石を打ち下ろし枝を砕き皮をむいて白い繊維の束に仕上げた。
衣を再び着終えるとその束を村人の一人に手渡しながら女は、その後の手順を語り教えたのである。
さて、踵を返して立ち去ろうとする女に一同は尋ねた。
「お名前は何と。」
「私ですか。この岡太川の上流に住む者です。」
そう言い残すと優しい笑みとともに辞儀し女は歩き去った。
それからというもの、村人たちは教えられた通りに紙漉きを始めた。
紙漉きにはコウゾ、ミツマタなどの木が最適であるということを発見した。
繊維を柔らかくする等の製法にも試行錯誤や工夫が重ねられたことは言うまでもない。
やがてこの岡太五箇(大滝、岩本、不老(おいず)、新在家、定友)と呼ばれる地区は和紙製造という伝統産業を擁し、全国にその名をとどろかせるブランド「越前和紙」の一大生産地となったのである。
村人たちに紙漉きを伝授したこの女性はその伝説が語り継がれ、いつしか「川上御前」と呼ばれるようになった。
「川上御前」は紙祖神として「大滝神社岡太神社」に祀られ、地区の人々のみならず越前和紙に携わる全国の人たちに、今日もなお篤く崇敬されているのである。