四条河原町から八坂神社に向かって繁華街を歩き、料亭「一力亭」の角を曲がれば祇園花見小路である。べんがら格子の通りを進み、北門から建仁寺の境内に入っていくのは、観光客や参拝の人ばかりではない。学生さんも買い物帰りの地元の人々も、建仁寺の境内を通り抜けて、それぞれの場所を目指して急ぎ足で消えていく。建仁寺と近隣に住む人々は、ずっと昔から密接なつながりをもってきたようだ。
建仁寺の歴史
建仁寺は、京都に禅を弘布した寺院の一つであるが、当初は禅の専修道場ではなかった。1191(建久2)年、二度の渡宋を経て帰国し、日本に禅を伝えた栄西は、京都では旧仏教勢力からの激しい迫害を受けた。一方、武家政権を樹立して間もない鎌倉幕府では、将軍や北条政子などの権力者が栄西の禅に帰依し、1200(正治2)年に寿福寺を建立した。そして2年後、源頼家(鎌倉幕府二代将軍)の寄進を受け、栄西は念願の京都に建仁寺を開創する。だが当時の建仁寺は、他宗派からの非難に備えて、台密禅の三宗兼学の道場という形式を取らざるをえなかった。ようやく純粋な禅寺となったのは、宋からの渡来僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が第十一世住持となる1259(正元元)年のことである。
風神雷神図屏風
俵屋宗達(たわらやそうたつ)筆の国宝『風神雷神図屏風』は、建仁寺の寺宝として名高い。保存のため、実物は京都国立博物館に寄託されているが、高精細の複製品が寺内に常時公開されている。これは、(株)キャノンが最新のデジタル撮影と高精度のカラーマッチングを行って複製し、伝統工芸士が金箔を貼り、京都の表具師が表装を施したものである。右双には風嚢(かざぶくろ)を持って疾駆する風神。左双には連鼓を背負って地上に稲妻を落とす雷神。緑色の風神は素早く水平方向へ、白色の雷神は力強く垂直方向へと、そのエネルギーを収束させている。さらに、風神は左へ、雷神は下へと視線を向けることで、両神の動きのベクトルが明確に示されている。
俵屋宗達
俵屋宗達(1570?-未詳)は、初代の琳派絵師である。現在に至るまで、宗達に関する資料はきわめて乏しく、その人生はいまだ謎に包まれている。以下は、山根有三の『宗達研究I・II』(中央公論美術出版1994)の記述から、宗達の人生のアウトラインを拾ったものである。
山根によれば、宗達は1570(元亀元)年頃に生まれ、若い頃から、「ひとたび筆走らば自ら名画なる」というような、生来の画才を発揮していたと推測される。そして京都市中で、扇子や色紙、掛け軸などを売る「絵屋」を営み、相当の評判を得ていた。また宗達は、多くの職人を抱える経営者でもあり、上流町人として活躍していたようである。だが町の絵師・宗達が、通常では携わることのできない一大プロジェクトに参加して名声をえるようになったのは、京都の茶人であり書家でもあった本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)の力による。1602(慶長7)年、光悦は厳島神社の「平家納経」表紙見返絵修理に宗達を誘い、宗達は見事にその大役を果たした。以来、宗達には、寺社仏閣や貴族からの注文が舞い込むようになったという。
ちなみに、過去帳などによると、光悦と宗達の妻とはいとこ同士にあたる可能性があるという。
宗達画の革新
宗達の『風神雷神図屏風』の制作年は、1639(寛永16)年頃とされている。一方、宗達の没年は不明ながらも、この作品を仕上げて数年後であろうと推測される。山根は、金、白、緑は宗達が最も好んだ色であり、その三色が最高の色彩効果を生み出し、かつ、それまでの屏風絵の常識を一新したのが、この作品だったと述べている。
宗達以前の絵画において、風神と雷神は千手観音の眷属として描かれてきた。そのため、眷属である両神だけを描くことは、すでに常識破りであった。また、風神雷神の表情は、おどけているようにも見える。神というよりはむしろ、親しみを感じさせるような、人間的な顔つきに描かれており、神と人とを同一視するような描法である。さらに、注目すべきは中央の空間である。余白がこの屏風の中心を占め、風神と雷神はその余白を装飾しているかのような構図となっている。屏風の左右に大きく引き離された風神と雷神は、画面からはみ出すほどに遠ざかっており、見る者に、天空という広大な世界でのできごとを想像させる。また、両神の全体像を描かないことで、瞬時もとどまることなく動き続けている様子を表現しているのだ。いずれも、それまでの屏風絵には決して見ることのない表現形式であった。
屏風絵の謎
仁和寺の西に、建仁寺の塔頭・霊洞院に所属する妙光寺という寺がある。宗達は『風神雷神図屏風』を、この妙光寺のために描いたと言われている。ここで山根が指摘しているのは、宗達は屏風の依頼を受けるに際して、ほとんど何の制約も受けずに、自由に制作に取り組んだであろうということである。そのため、この作品が例を見ないほど斬新で、型破りな傑作として世に残ったという。しかし、では、なぜ宗達はこの題材を選んだのであろうか?また、どうして眷属である風神雷神を描いたのであろうか?依然としてその疑問は解決されていない。
ところで、1829(文政12)年、妙光寺六十三世・全室慈保が、本山建仁寺に移るにあたり、この屏風を帯同したとする指摘がある(相見香雨『風神雷神と妙光寺』1960(昭和35)年)。以後屏風は、建仁寺の寺宝として所蔵され、今日に至るのだが、同じく琳派の絵師・尾形光琳(おがたこうりん)は、1710(宝永7)年頃に、宗達の『風神雷神図屏風』を学ぶべく、模写したと言われている。つまり、光琳が宗達の屏風を見たのは、それが建仁寺に移る前、すなわち妙光寺においてだったことになる。
建仁寺のハイライト
建仁寺の見所は数多いが、ハイライトとして、次の4つを挙げておきたい。ダイナミックな法堂天井画・小泉淳作筆の『双龍図』、白砂と岩の方丈庭園、四方どこから見ても美しい眺めとなる潮音庭、そして宇宙の根源的形態を表したという○△□乃庭。いずれもすばらしい。
建仁寺のあらゆる空間には、長い年月の間に刻み込まれた深遠な世界が存在する。耳を澄ませて座っていると、屏風、天井画、庭、それぞれの芸術が、心の奥に語りかけてくる瞬間が来る。この寺を訪れるなら、駆け足で通り過ぎずに、先駆者たちが作り上げてきた禅の空気に、しばし浸ってみたい。
琳派の匠シリーズについて
琳派とは、16世紀に始まった日本絵画の流れを指しますが、当時からそう呼ばれていたわけではなく、現代になって振り返って名付けられた名称です。大胆な構図、装飾的かつ繊細な筆遣い、余白の美を追求する表現様式が、琳派の画家たちに共通しているようです。琳派の作家は、私淑という形で、過去の巨匠の作品に学び、そこから独自の美意識へと到達していく傾向にあります。このシリーズでは、琳派として紹介されることの多い5人の匠について、順次ご紹介していきます。
1本阿弥光悦(ほんあみこうえつ 1558-1637):京都 光悦寺
2俵屋宗達(たわらやそうたつ 1570?-不明):京都 建仁寺
3尾形光琳(おがたこうりん1658-1716):熱海 MOA美術館