軽井沢に多くの別荘が建ち、避暑地としてのステータスが築かれたのは、明治時代後半のことである。江戸時代、軽井沢は中山道の宿場町として繁栄したが、碓氷新道が開通すると急速に寂れていった。そんな軽井沢を訪れ、別荘を建てて初めて避暑を楽しんだ人物は、日本の富裕層ではなく、素朴な暮らしを愛する外国人宣教師だった。宣教師は、東京の猛暑と蚊の襲来に閉口し、過ごしやすい高原の土地を探していた。そして1885(明治18)年、浅間山の山麓に位置する美しい緑の町、軽井沢が、彼の目にとまった。
軽井沢に残された異国人の足跡
江戸から明治への転換期、戊辰戦争の戦火は各地に飛び火して、多くの死傷者が出た。当時、日本では外科的な処置を行える医師は皆無に等しく、戦傷者の治療のために外国人医師が派遣されることになった。英国公使館付医官のウィリアム・ウィリウス(1837-1894)は、1868年8月20日、急遽横浜を発って越後を目指すことになる。8月24日頃、中山道を進み軽井沢に達したウィリスは、やや興奮気味に英国公使館に第一報を送った。「ここ(軽井沢)と江戸の温度差は驚くほどで、華氏で10℃は低い。夏でも蚊はいないという。」(『遠い崖』7江戸開城、萩原延壽より)これが、西洋人が軽井沢について述べた初めての記録である。じめじめした夏と、安眠を妨害する蚊は、外国人にとって堪え難い現実だったようだ。
英国聖公会のアレクサンダー・クロフト・ショー(1846-1902)が、友人のディクソン氏と軽井沢を訪れたのは、1885(明治18)年のことである。ショー師はカナダ生まれであったが、英国公使館付牧師となり、おそらくウィリスの報告を含めて、軽井沢の情報を事前に得ていたものと思われる。ショー師はリウマチを患っており、軽井沢を「屋根のない病院」と言って讃えた。そしてさわやかで美しい軽井沢を、すぐに内外の人々に紹介した。翌年には自ら別荘を建てて、家族とともに夏を過ごすようになる。
ショー師の軽井沢生活
ショー師の三男・ロナルドによれば、ショー師は次のような言葉で軽井沢を語ったという。
「(和美)峠の上から、浅間山の驚くべき姿と丘に囲まれた軽井沢平原をずっと見渡すことができた。ここの新鮮でさわやかな空気が気に入り、発育盛りの子どもたちを蒸し暑い東京から、毎夏少しの間でも・・・この高原に連れてこようと思った。」(『軽井沢別荘史』宍戸實より)
ショー師は廃業した旅宿を買い、改築して別荘として利用した。日曜日にはその一角で礼拝を行っていたが、周囲に西洋人が多くなってくると手狭になり、独立したチャペルをもうけることになった。近隣の人々は宣教師一家の様子に興味津々で、ショー師もそれをいとわず友好的な態度をとった。
ショー師は近くの池で子どもたちと遊びながら、住民たちに水泳を教えたり、冬の仕事として製氷を勧めたりした。その後、製氷は軽井沢の地場産業となり、約150の製氷池ができた。他にも、ショー師が軽井沢の人々に紹介した作物として、キャベツ、ルバーブ、ラズベリーなどが伝えられている。
ショー師来日の理由と東京生活
ショー師の家系はスコットランドの名家であったが、カナダに移住し、トロント市の開発に関わって壮大な農園主になった。大学卒業後、聖職者となったショー師は、英国聖公会から、切支丹禁制が解かれる日本に派遣された。1873(明治6)年当時、カナダから日本への定期航路はなく、ショー師はアメリカ経由で横浜に上陸した。来日半年ほどで、福沢諭吉(1834-1901)の子どもたちの家庭教師を務め、その後、慶応義塾で教鞭を執るなど、徐々に福沢との親交を深めていった。1881(明治12)年、東京の麻布飯倉坂上に聖アンデレ教会を開いて、本格的な布教活動を開始。亡くなるまでの29年間、キリスト教の布教とともに、日本の女子教育に力を注いだ。またショー師は、日本政府が1858(安政5)年以来諸外国と結んでいた不平等条約の改正にも尽力した。
ショー師以降の軽井沢
1897(明治30)年頃には、夏の軽井沢における西洋人の滞在は500人にも及んでいた。万平ホテルのような西洋式のサービスを提供するホテルもできて、東京の資産家たちは、徐々に軽井沢で夏の休暇を楽しむようになった。中には子どもたちと一緒に朝から正装してショー師のチャペルに出かけ、賛美歌を聞く人々もいた(『私の軽井沢物語』朝吹登水子より)。
過去50年間の軽井沢トピックス
今上天皇、皇后両陛下が軽井沢で出会い、軽井沢会テニスコートで試合をされたのは1957(昭和32)年の夏のことである。また、1976(昭和51)年から4年間、ジョン・レノンが家族とともに訪れ、万平ホテルを常宿にしていたことはよく知られている。最近では、2012(平成24)年、ビル・ゲイツが軽井沢に、総工費80億円をかけて和風の別荘建築を始めた。完成は2014(平成26)年12月の予定だという。
現在、軽井沢の別荘が約14,000戸に対して、住民の総世帯数は8800を数えるほど。リゾートマンションから一区画1000坪のカラマツの森まで、別荘の物件はいろいろあるようだ。