日本に仏教が伝来してより1400年間、法隆寺には長い歴史の中で生まれた650体の仏像が安置されている。中でも初期の仏像は、大陸から進んだ知識と技術をもたらした渡来人たちが作ったものである。これらの仏像は、高句麗を経て日本に伝わった北魏様式や、百済からもたらされた南朝様式など、古い時代の中国や韓国の影響を色濃く残している。平安時代以降に日本人仏師らが造像した仏像に比べると、その姿形の違いは歴然としており、体はモデルのようにスリムで、どこかエキゾチックな顔立ちをしており、『アルカイック・スマイル』という独特の微笑みを湛えている。
封印された救世観音
法隆寺の仏像の中で最も謎に満ちた仏は、救世観音像であろう。739(天平11)年に八角堂の夢殿に納められた救世観音(造仏推定年代は629-654年)は、長い間、誰もその姿を見ることを許されない秘仏であった(後述)。江戸時代には、約200年間、法隆寺の僧侶さえ拝むことができなかったという。理由は未だ明らかではないが、僧侶たちは、封印を解けば直ちに神罰が下り、地震で全寺が倒壊するという迷信を信じていた。
1884(明治17)年、東洋美術史家のアメリカ人、アーネスト・フェノロサ(1853-1908)は調査のために法隆寺を訪れた。西洋化を急いでいた当時の日本には、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れており、その混乱の中で、日本の古社寺に伝わる貴重な仏像や宝物類が失われつつあった。そこでフェノロサたちは、明治政府の元で、公式の宝物調査を行っていたのである。後の文化財保護法の制定や国宝の概念は、この時行われた調査結果に基づいて生まれたものだといわれている。
アーネスト・フェノロサ
フェノロサは1853(嘉永6)年、アメリカ・マサチューセッツ州、セーラムに生まれた。ハーバード大学で哲学および政治経済学を学んだ後、1878(明治11)年に、お雇い外国人として来日し、東京大学で教鞭を取った。フェノロサの専攻は美術ではなかったが、来日前から東洋美術に対する造詣は深く、自らも狩野派の日本画を学ぶなど強い関心を寄せていた。
救世観音開扉の瞬間
1884(明治17)年8月16日、明治政府の依頼を受けたフェノロサは、法隆寺を訪問した。政府の法隆寺宝物調査は、それ以前にも数回行われていたが、救世観音を納めた厨子の開扉には至らなかったようだ。フェノロサは僧侶たちに観音像の開帳を迫った。しかし彼らは、聖徳太子の怒りを恐れて、封印を解くことをかたくなに拒んでいた。フェノロサはあらゆる議論を展開して説得を試みた。話し合いはもつれ、長く硬直状態が続いたが、最後にはフェノロサの要求が聞き入れられた。救世観音をその目で見た時のフェノロサの興奮は、『東亜美術史綱』に以下のように記されている。
『・・・二百年間用ひざりし鍵が錆びたる鎖鑰内に鳴りたるときの余の快感は今に於いて忘れ難し。厨子の内には木綿を以て鄭重に巻きたる高き物顕はれ、其の上に幾世の塵埃堆積したり。木綿を取り除くこと容易に非ず。飛散する塵埃に窒息する危険を冒しつつ、凡そ500ヤードの木綿を取り除きたりと思ふとき、最終の包皮落下し、此の驚嘆すべき無二の彫像は忽ち吾人の眼前に現はれたり。』
救世観音の謎
それでは再び、救世観音秘仏化の謎について考えてみたい。
まず、法隆寺の境内は、推古天皇の摂政であった聖徳太子(574-622)が607(推古15)年に建立した西院伽藍と、739(天平11)年に聖徳太子自身の住居跡に作られた東院伽藍からなる。救世観音は、東院伽藍の中心に立つ夢殿に安置されていた。この夢殿は八角堂である。八角堂は通常、供養塔または仏塔などとして建てられる。ということは、救世観音は、供養を目的として祀られた像ということになる。
737(天平9)年、都で天然痘が流行し、藤原氏など政治の中枢にいた人物が相次いで亡くなった。これを聖徳太子の怨霊の仕業だと考えた人々は、太子が亡くなってから100年以上を経てから、夢殿を建て、太子の供養をしたのではないかという推論がある。それほど太子の霊が強力で、何らかの形で強い影響力が残っていたということなのだろうか。この時に夢殿に祀られた救世観音は、太子の等身であると伝えられており、太子は当時としてはかなりの長身だったということになる(像高は178.8cm)。
さて、救世観音像はクスノキの一木彫刻で、仏師は白土の下地に漆を塗り、金箔を押している。
暗い夢殿の中を覗き込むと、その顔には、かすかな笑みが浮かんでいるように見えた。私には、どこか意味深な、ちょっと不気味な表情のように思えた。『聖徳太子伝私記』によれば、この像を彫った仏師は、仏の完成後まもなく、原因不明の死を遂げたらしい。また、鎌倉時代にこれを模刻しようとした仏師が、像の完成を見ることなく亡くなったという話もある。救世観音が夢殿の厨子に厳重に封印された理由は、これらのできごとと関連がないとは言い切れないのではないか。
つまり、太子の怨霊を恐れた人々が、太子を神として祭り上げて夢殿の扉を閉ざし、更なる災難を繰り返さないように、太子の等身像を白布で巻いて封印したというストーリーが浮かび上がってくるのである。
フェノロサの貢献
フェノロサが心を寄せたのは、美術品としての仏像だけではなかった。彼自身、滋賀県三井寺(園城寺)で受戒し、正式な仏教徒となっていた。フェノロサは法隆寺の救世観音開扉の後も宝物調査を続け、後に日本の国宝に指定されることになる宝物類の目録を作製した。その後は、東京美術学校(現・東京芸術大学)の設立に尽力し、新世代の日本画家育成に寄与した。
1890(明治23)年、37才のときにボストン美術館東洋部長となって帰国し、展覧会の企画や書籍の執筆を通して、アメリカへ、そして世界へ、日本美術を紹介した。1908(明治41)年、仕事で訪れていたロンドンの大英博物館で心臓発作のため死去。フェノロサの遺志により、火葬された後に、遺骨が日本に送られ、滋賀県大津市法明院(受戒した三井寺の塔頭)に埋葬された。
メモ:救世観音のお開帳は、毎年4月11日から5月5日と、10月22日から11月22日の年2回である。