秋の日の京都は、穏やかな晴天に恵まれることが多い。澄んだ空気に、色づいた木々が美しく、旅をするには最適なシーズンだろう。洛西にある世界遺産の天龍寺には、紅葉の名所・亀山(小倉山)と嵐山を借景にした緑豊かな景観を誇る庭園がある。創建以来700年間、この庭は平安貴族や僧侶たちをどれほど魅了してきたことだろうか。幸い、現代に生きる私たちもまた、その景観を目にすることができるのはうれしい限りである。
作庭は、鎌倉時代後期から室町時代にかけて活躍した禅僧・夢窓疎石である。
庭園拝観の順路
庫裏の前に「本堂参拝受付(右)」と「庭園参拝受付(左)」の二つのゲートがあるが、庭園を鑑賞するには、左の「庭園参拝受付」から入る。まっすぐ進んでいくと大方丈の前を通って夢窓疎石作庭の庭園に出る。本来は大方丈から鑑賞する庭であったため、ベンチなど腰をかける場所はない。歩きながら、少しずつ異なる角度で庭を眺めて楽しみたい。そのまま進み、書院から多宝殿、その先の百花苑まで行くと、北門ゲートに行き当たる。そこから出ることもできるし、小高い丘の道を通って大方丈まで戻ってくることもできる。
天龍寺方丈庭園
京都には枯山水の庭がたくさんあるが、これは石や砂を用いて、水の流れを抽象的に表現したものである。天龍寺の夢窓疎石の庭は、単純な枯山水ではなく、次の三つの要素を美しく融合させた庭である。1)手前の白砂で緩やかな汀を描いて、日本の州浜を表現した。2)池を取り巻く石組で中国大陸の荒磯を表した。3)後方左の嵐山と右の亀山を借景として庭の意趣に取り込んだ。秋には中央の曹源池に映る青い空と、赤・黄・橙に染まった木の葉、常緑樹の緑が見事なコントラストを見せてくれる。
夢窓疎石と禅僧の作庭
この庭園より以前、京都の庭は、自然の風景を縮小して庭に写した比較的単調なものであった。池を掘り、中島を作って船を浮かべるという定型通りに造営し、庭で催す宴に趣向を凝らして、外出気分を味わっていたのである。だが夢窓疎石の庭は、これとは大きく異なっていた。それは、優れた禅僧が、悟りのための庭という明確な目的をもって作庭したものだったからである。
夢窓疎石は、その半生を、甲州、紀州、京、鎌倉、那須、陸奥、常陸など、仏の道を求めて全国を渡り歩き、自己の研鑽につとめた。流浪の暮らしの中で、夢窓疎石は天然自然が具有する「変化の中の普遍」を感得し、自然に向かって徹底的に悟りを深めていくことを学んだという。この経験が、天龍寺の庭園や、同じく京都の西芳寺、鎌倉瑞泉寺の庭園造りに生かされたという。
庭についての夢窓疎石の考え方は、1339-1341(暦応2-4)年頃に、足利直義(室町幕府の初代将軍・足利尊氏の弟)との間で実際に行われた問答の中で、端的に述べられている。その内容を速記した『夢中問答集』五十七段の中に、次の一文がある。
「山水(さんずい、この場合は庭)には得失なし。得失は人の心にあり。」
(庭を愛でるのも、作るのも、一概によいとか悪いとか言えることではない。その人の心がけ次第で、よいこととも悪いこととも取れるのだから。)
夢窓疎石は悟りを深める修禅の場として庭を造り、その庭を眺めることも、日々の修行のひとつとしていたようだ。
禅僧は「無」の境地を得るために座禅をする。「無」に至ることはなま易しいことではないが、座禅は、自室でも、岩の上でも、庭でも、どこにいてもできる。そこで夢窓疎石は、仏法の理を観ずること、「無」に至ることの助けとして、座禅のための庭を作ったのだという。
このシリーズについて
平安京遷都から今日までの1200年間、京の都には、星の数ほどの寺社や庭園が造られました。その中でも名庭と呼ばれる庭には、大きく分けて三つの形式があります(複数を組み合わせたものもありますが)。1)枯山水:石や砂で水の流れを表現したもので、方丈や書院などから眺める庭。2)回遊式:多くは池の周囲を散策しながら、様々な角度から楽しむ庭。3)抽象的枯山水:伝統的枯山水を継承しつつ、モダンなデザインを取り入れた庭。
京都の庭園の歴史は神泉苑から始まり、鎌倉時代以降、上記のような三つの形式に発展していったようです。このシリーズでは、京都の名庭園をご紹介しながら、それらを設計した作庭家(庭園プランナー/庭師)の、庭園に関する独自の考え方を探っていきたいと思います。
1 夢窓疎石:天龍寺 方丈庭園(池泉回遊式)
2 小堀遠州:南禅寺塔頭 金地院 鶴亀の庭(枯山水)
3 石川丈山:詩仙堂(枯山水+池泉回遊式)
4 七代目植治:無鄰菴(池泉回遊式)
5 重森三玲:東福寺 方丈庭園(抽象的枯山水)
なお、平安時代の京都では、庭で船遊びをしたり、建物をつなぐ回廊から景色を楽しんだりしました。回廊巡りを楽しむ京の庭シリーズでは、縦横にはりめぐらされた回廊から鑑賞する庭をピックアップしてご紹介しています。