嵯峨野路歩きの後半は二尊院、常寂光寺、落柿舎辺りから渡月橋である。
二尊院と常寂光寺に共通するのは、「時雨亭」跡である。時の歌人、藤原定家が百人一首を編纂したとされる別荘跡であるが、なぜかその跡の石碑がこの二寺を含めて嵯峨野には3箇所ある。その真贋は研究家に任せるとして、この短歌の世界を垣間見てみよう。
短歌は和歌とも言う。いかにも日本ならではの五七五七七の字音数に則り詠まれる詩である。この和歌詠みの上手さは当時の貴族の世界ではひときわ重要な要素であった。御所宮殿にあって和歌が上手であれば一目も二目も置かれ尊敬されたのである。「方丈記」の鴨長明が自身の和歌がなかなか評価されず出世が思うように叶わなかったのは好例であろう。
さて時は鎌倉時代。幕府の御家人である宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)は歌人でもあった。頼綱は出家すると名を蓮生(れんじょう)と号す。同族で親交の深かった藤原定家とは、娘を定家の息子為家に嫁がせてもいた。その蓮生は嵯峨野に「小倉山荘」という別荘を建てた。定家の別荘も近くで繁く行き来がある。ある霜月も深まった日のこと、蓮生が定家を訪ねてきた。
「定家殿、折り入ってお願いがあるのだが、聞いてはもらえぬだろうか。」と持参の饅頭を差し出して微笑みかける。定家は甘い物に目がないのだ。紐解いて一つを美味そうに頬張りながら
「蓮生殿、そのお願いとやらは何でござろうか。」
とにこやかに聞き返すと、蓮生はどこかほっとした様子で、
「このたび建てた別荘なのだが、襖(ふすま)を飾る色紙を貴殿にお頼みもうしたいのじゃよ。」
「ふうむ。色紙でござるか。」
と定家、顎の先をさすりながら、目は宙を漂っている。開け放たれた障子の外にはイロハモミジの赤がまぶしい。二人の佇む座敷の奥まで紅葉の朱色の光が差し込んでいる。
「おお、そうです。天智天皇からの名だたる歌人の歌を一首ずつしたためた色紙ではいかがでござりましょうか。さぞや見事な襖になると思われます。」
蓮生がそれを喜んだのは言うまでもない。定家はさっそく歌人の選出と歌の編纂に没頭した。こうしてできたのが「小倉百人一首」である。
この歌をしたためた色紙は「小倉色紙」と呼ばれ、一部は蓮生の子孫にも引き継がれた。何せ元は98枚しかない。時代とともに散逸し、その希少価値はますます高まっていった。茶道が盛んになり茶庵や茶室に「小倉色紙」を飾ることが流行した。実は、珍し物好きの豊臣秀吉とこの「小倉色紙」にまつわる逸話がある。
宇都宮鎮房(しげふさ)は主君豊臣秀吉の不信を買ってしまい、移封とともに家宝としていた「小倉色紙」を差し出すように求められた。移封は受けたものの「小倉色紙」は拒んだため暗殺されてしまったのだ。現存する小倉色紙は十数枚と言われ、数千万円でも欲しがる人はあまたいるであろう。そのような少々生臭い史実も思い出しながら、小倉山の紅葉をくぐり歩く。
「小倉山 峰の紅葉葉心あらば いまひとたびのみゆき待たなむ 」 貞信公