夏の朝、生け垣や軒下に咲く朝顔ほど、長く日本人に親しまれてきた花はない。子供の頃、きっと誰でも一度は朝顔を育てたことがあるだろう。クーラーがなかった時代には、人々は朝顔を見て涼を取った。今でも朝顔は夏の風物詩として愛され続けているが、江戸っ子は、早朝に咲き、昼までにはしぼんでしまう朝顔の潔さにも、心を惹かれたのだろう。かつては、様々に改良を重ねた「変化朝顔」が珍重されたこともあった。とくに入谷界隈の植木屋が作る朝顔は素晴らしく、いつしか入谷鬼子母神のお祭りに市が立ち、多くの人々が訪れるようになったという。毎年7月6-8日の3日間、その鬼子母神の真源寺を中心に、100軒余の朝顔店が出る。
入谷朝顔市
入谷朝顔市の店が立つのは、地下鉄日比谷線「入谷」駅で降りて徒歩1分、またはJR山手線「鴬谷」駅から徒歩5分の言問通りである。早朝6時頃から、夜の9時半頃まで、朝顔の店がびっしりと軒を連ねる。夜7時以降は、さらに100軒以上の露店も出て、大変なにぎわいとなる。
江戸時代の朝顔ブーム
文化文政(1804-1829)から安政(1854-1860)の時代、江戸に朝顔栽培の一大ブームが巻き起こった。大名も庶民も、八重咲きや大輪の花など、品種改良に夢中になったという。この頃にはなんと、朝顔の図録も多数出版されて人気を呼んだそうだ。中でも最高のできと賞賛されたのが、1854(嘉永7)年に出版された『朝顔三十六花撰』である。
こうした朝顔人気のもとで、1844(弘化元)から1845(嘉永元)年頃に、朝顔をモチーフにした日本画の傑作が生まれた。一代絵師・鈴木其一(すずききいつ)の『朝顔図屏風』である。其一は俵屋宗達や尾形光琳に続く琳派を代表する画家の一人である。
『朝顔図屏風』(メトロポリタン美術館蔵)
其一がこの作品を描いたのは、40代の後半であった。画面一杯に咲く濃紺の朝顔は、実際の花よりかなり大きい。直径15cmもある大迫力の花が150個余、金屏風に舞っている。その花びらは光沢のある瑠璃色で、瑞々しく、とても美しい。屏風に描かれた朝顔の花は、金箔を押した画面の上で、音楽に合わせて踊っているかのようだ。
鈴木其一(1796-1858)
其一は江戸中橋(現在の日本橋三丁目交差点辺り)の紺屋(紫染め)の息子として生まれた。其一の美しい瑠璃色の朝顔は、おそらくその出自と関係していたのであろう。18才のときにサムライ絵師・酒井抱一に弟子入りし、その後、抱一の家臣となる。初めは師・抱一の画風に忠実であったが、30代半ば頃から強烈な個性を発揮し始めた。転機となったのは、江戸から京阪、姫路を経て九州へと、10ヶ月に及ぶ絵画修行の旅に出たことだったと言われている。
其一の個性とその画風
『癸巳西遊日記(きしさいゆうにっき)』によれば、1833(天保4)年2月、江戸を後にした其一は、各地の古い社寺を訪ねて書画の学習に励んだ。また雄大な自然のなかに身を委ね、感銘を受けた景観を繰り返し写生した。こうして、徐々に其一独自の画風が育まれていったのである。『夏秋渓流図』(根津美術館蔵)は、まさにその西遊の経験が生かされた作品である。鮮烈な森の緑と、飛沫を上げて流れる渓流の青が、みごとなコントラストで描かれており、絵の前に立てば、其一の世界にぐっと引き込まれる感じがする。
江戸時代の人々が(1856年に発表された)メンデルの法則を知る由はない。しかし彼らは、まったくの経験則で朝顔の交配を行い、多種多様な花を生み出した。朝顔は夏の象徴であるが、同時に江戸時代の日本人の、知恵の象徴とも言えるようだ。
琳派の匠シリーズについて
琳派とは、16世紀に始まった日本絵画の流れを指しますが、当時からそう呼ばれていたわけではなく、今日振り返って付けられた名称です。大胆な構図、装飾的かつ繊細な筆遣い、余白の美を追求する表現様式が、琳派の画家たちに共通しているようです。琳派の作家は、私淑という形で、過去の巨匠の作品に学び、そこから独自の美意識へと到達していく傾向にあります。このシリーズでは、琳派として紹介されることの多い5人の匠について、順次ご紹介していきます。
1本阿弥光悦(ほんあみこうえつ1558-1637):京都 光悦寺
2俵屋宗達(たわらやそうたつ1570?-不明):京都 建仁寺
3尾形光琳(おがたこうりん1658-1716):熱海 MOA美術館
4酒井抱一(さかいほういつ1761-1828):東京 向島百花園
5鈴木其一(すずききいつ1796-1858): 朝顔への情熱