高輪 東禅寺

異人たちの足跡 16 ウィリアム・ウィリス

品川駅の高輪口から、第一京浜を北に向かって徒歩7分、閑静な住宅街の中に、臨済宗妙心寺派の別格本山、東禅寺がある。ここには150年前、二度の外国人襲撃事件の舞台となった英国公使館が置かれていた。

東禅寺

江戸時代末期、日本はアメリカやイギリスをはじめとする欧米列強から開国を迫られ、ついに各国と修好通商条約を結んだ。しかし国内には、外国人が日本に居住することを憂慮する攘夷派がそこかしこに出没し、外国人襲撃を繰り返していた。

そのような不穏な状況下にあって、1859(安政6)年に初代英国公使館が設置された東禅寺でも、幕府の派遣した警備の武士たちが、連日不審者に目を光らせていた。しかし、攘夷派は警護の目をくぐり抜け、1861(文久元)年、次いで1862(文久2)年に、闇夜に紛れて東禅寺に侵入した。本堂の柱には、今もくっきりと刀傷が残っている。第一次東禅寺事件では、公使館の職員二人が負傷した他、警備に当たっていた幕府側の武士20人が切られた。襲撃側も14人中、3人が死亡した。第二次東禅寺事件では、警備の2人が斬殺された。

山門をくぐって、手入れの行き届いた植栽に囲まれた石畳を進み、導かれるように境内に入る。正面に本堂、左手には三重塔がひっそりと佇んでいる。塔の幅は4m、高さは22mで、朱塗りの柱と組物に瓦屋根を載せた美築である。かつて東禅寺は品川の海岸近くにあった。品川沖が次々に埋め立てられたため、今では『海上禅林』という扁額だけが、東禅寺の過去を物語っている。残念ながら建物の中は一般公開されていない。

第二次東禅寺事件

1862(文久2)年7月26日、第一次東禅寺事件から1年後の晩、東禅寺の英国公使館にいた医官、ウィリアム・ウィリス(William Willis)は、深夜の闇をつんざく悲鳴を聞いた。ベッドから飛び起きてドアの隙間を覗くと、伍長が立っていた。ウィリスは伍長に、何があったのかと尋ねたが、この時点では伍長にも事の次第がわかっていなかった。伍長は様子を見てくると言い残して、本堂の前庭に向かって歩いていった。すると突然、暗闇で何かが始まり、伍長は発砲した。丸腰だったウィリスは、慌てて部屋に戻り、ドアを閉めて銃を探した。それから銃弾を確かめ、身構えて、次に起こる何かを待った。

長い時間が流れたように感じた。緊張した手にじわりと汗が滲んだ。ウィリスは耳を澄ませて集中したが、何も起こらなかった。

結局、本堂を警備していた歩哨は重傷を負い、ウィリスが見た伍長は、すでに息絶えていた。歩哨の怪我の手当をしながら、ウィリスはやっとのことで襲撃者の正体を聞き出した(その後歩哨は死亡)。当日非番だった警備の侍のひとりが、単独で起こした事件だった。

ウィリアム・ウィリス

1837(天保8)年にアイルランドのファーマナーで生まれ、優秀な成績でエジンバラ大学医学部を卒業したウィリスは、その後ロンドンのミドルセックス病院で臨床経験を積んだ。1861(文久元)年に英国公使館付き医官として来日。ウィリスは、東禅寺事件に続いて、生麦事件、その後は各地で衝突した幕府と攘夷派の交戦負傷者の治療に奔走した。1868(慶応4)年、鳥羽・伏見の戦いが江戸に飛び火して、大量の負傷者が出たとの報せに、ウィリスは横浜軍陣病院(後の十全病院、そして横浜市立大学医学部附属病院へ)を設立し、他の英国人医師らとともに治療に当たった。来る日も来る日も、骨折した骨を矯正して添え木を当て、傷口から弾丸を取り出し、壊死した足を切断した。朝から晩まで際限なく運び込まれて来る負傷者の治療を通して、ウィリスは、それまで外科学を知らなかった日本人医師たちに、医療技術を教えていった。

ウィリスは連日治療に専念したが、搬送される負傷者は絶えることなく、すぐに病院の収容能力はオーバーした。搬送されても寝かせる場所もないような病院では機能しない。徳川幕府が終焉を迎えて明治政府が成立すると、早速東京に新病院が建設されることになった。新政府は東京病院(後の東京大学医学部附属病院)の院長にウィリスを招聘した。外科手術に加えて、系統的な栄養指導や食事療法、また公衆衛生の概念など、ウィリスは西洋医学の基本を日本に根付かせるべく力を尽くした。

ウィリスと横浜の友人たち

英国公使館のアーネスト・サトウは、ウィリスを次のように評した。

『ウィリスは身長2m、体重100kg。巨漢には大きな心が宿るというが、彼もその例外ではない。』

ウィリスとサトウは生涯の友となり、離日後も親しい交際が続いた。同じく英国公使館のミッドフォードは、友人に宛てた手紙にこう書いている。

『ウィリスなどは、小さくて繊細な日本の家屋に入るには、あまりにも大きすぎる。まあ入るのはともかく、一体どうやってそこから出てくるのか、摩訶不思議としか言いようがない。』

ところで、イラストレイテッド・ロンドン・ニュースの画家兼特派員、チャールズ・ワーグマンは、ウィリスが遭遇した事件の一年前、第一次東禅寺事件の現場に居合わせた。その時の様子を描いたワーグマンの絵は、後に記事となって掲載される。またワーグマンが横浜居留地で発行していたジャパン・パンチには、ウィリスはユーモラスな姿で幾度となく登場している。

ウィリスのその後

ウィリスは東京病院、および東京医学校(後の東京大学医学部)で医学教育と指導を行ったが、日本政府がイギリス医学ではなく、ドイツ医学を採用したため、1870(明治3)年に東京を離れた。そして鹿児島に移り、鹿児島医学校(後の鹿児島大学医学部)の校長として医学の普及に貢献した。鹿児島でウィリスの指導を受けた高木兼寛は、海軍軍医、英国留学などを経て、東京慈恵会医科大学を創設する。

私生活では、1871(明治4)年に鹿児島で江夏八重(こうしやえ)と結婚し、1874(明治7)年にはアルバートを授かった。しかしウィリスの鹿児島での生活は、唐突に終わりを告げる。西南戦争が勃発すると、西郷隆盛と親しかったウィリスは、八重とアルバートを残して離日しなければならなくなった。1877(明治10)年に東京での職を求めて再来日するが、すでにドイツ医学が全盛を極め、ウィリスを雇い入れてくれる場所はなかった。結局わずか2ヶ月の滞在で、アルバートを連れて慌ただしく日本を離れることになった。1885(明治18)年から1892(明治25)年まで、親友のサトウとともにシャム(現タイ)の英国公使館に勤務したが、体調不良のため帰国し、1894(明治27)年にアイルランドの兄の家で、57年の生涯を閉じた。閉塞性黄疸だったと伝えられている。

若き日のウィリスが体験した第二次東禅寺事件は、近代日本の黎明期に起きた歴史的事件であった。だが時は流れ、今やその禅林は平安に包まれて、祈りの場にふさわしい静寂を取り戻している。

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