全国津々浦々にあまねく連なる駅前のシャッター通り。
この長浜も十数年前まではそうだった。
それが今では、真夏の暑い盛り、平日の昼間にもかかわらず観光客のグループがいくつも楽しげに通りを歩いて行く。
長浜の人たちのお太閤贔屓には相当のものがある。
お太閤贔屓とは、かの豊臣秀吉を今にしても愛してやまないということだ。
寂れた商店街の片隅に店主たちが集まり、真剣な形相で、「何とかせにゃあお太閤様に申し分けがたたんぞ」とぶつぶつ言いあっている。
町興しの原点に立ち返り、どうしたら往時のとまではいかないまでも賑わいのある街を再興できるか、喧々諤々の議論をしたに違いない。
長浜は、さかのぼること400余年の戦国時代、豊臣秀吉が切り拓いた町である。
江戸から大阪への街道の中継地点にあり、物流の要、宿場町として、また琵琶湖の水運の要の長浜港など、長浜はとても重要だった。
徳川時代に政権が移ると、家康は秀吉の匂いのするものは徹底的に破壊する。
秀吉が建てた長浜城も堀の石すら砕いたという執念の見せようだ。
だが、商業の隆盛は別である。
家康が納税の源を絶つ訳がなかろう。
その後、長浜の繁栄は明治時代以降も続き、生糸や織物の大集散地として大いににぎわったという。
しかし、太平洋戦争後、繊維から重工業へと日本の産業構造の激変に長浜も呑まれて凋落の一途を辿る結果となってしまった。
ここまでは日本のどこにもあることだ。
さあ、どうしよう?
智恵を出さなければ閉まったシャッターは開くどころか錆付いてしまう。
その街だけが持つ魅力、財産、遺産は何か。
それを見失ったまま、企業が皮算用で企てるイベントの薄っぺらさは目の肥えた観光客はたちどころに見抜いててしまう。
本物の魅力。
他のどこにもないオリジナルな魅力。
古くて新しい魅力。
それらの金鉱を探しながら、長浜の人たちは試行錯誤で、掘り当てたのかもしれない。
金鉱につるはしの先が当たった「カッツ~ン」という感触。
黄昏の日差しが長く窓から差し込むレストランで、冷えた地ビールをコクコクと飲み干しながら、私は、にまにまと、長浜の栄枯栄を反芻していた。
船板塀のひっそりとした通りは、真夏の太陽にちりちりと焼かれている。
それでも通りを吹き抜けていく琵琶湖からの涼風は想像以上に心地よく、ふと佇んで今は昔の商業の往時を思わずにはいられなかった。