横浜の山手居留地は、イギリス、フランス、アメリカ、ドイツ、オランダなど、欧米諸国から来た人々が、ともに暮らすコミュニティーであった。一方で居留地は、日本人町とは掘割で完全に仕切られ、橋には関所が設けられ、住人らが使用人以外の日本人とは、交わることができないようになっていた。そんな環境の中でも、記者という立場を利用して、積極的に居留地の外へ飛び出したイギリス人がいた。彼は、日本の文化や日本人の生活を体験し、それを描いて記録したり、閉鎖的なコミュニティーに息を詰めて暮らす居留民たちの日常を、愛情を込めた風刺漫画で描いたりして、異なる母国を持った人々の心を結びつける働きをしたのだった。その人物とは、イラストレイテッド・ロンドン・ニュースIllustrated London Newsの特派員であり、画家であり、幕末・明治期の横浜を風刺した漫画雑誌、ジャパン・パンチThe Japan Punchの発行人として名を馳せた居留地の有名人、チャールズ・ワーグマンである。
山手資料館
山手外国人墓地の向かいにあるレストラン、山手十番館の敷地内に、ワーグマンの描いた絵を多数保存している資料館がある。この資料館には、他にも居留地時代の山手の暮らしぶりを伝える品々が展示されている。
1階には、居留地の住民たちを風刺した漫画雑誌ジャパン・パンチの創刊号の表紙や、居留地で使われていたガラス食器、ランプ類などが飾られている。また2階では、山手外国人墓地のジオラマや大正初期の山手から見たパノラマ写真などを見ることができる。資料館の展示物は、山手十番館のオーナー(故本多正道氏)のコレクションである。この小さな資料館には、個人のお宅に伺って珍しいものをいろいろ見せてもらうような、懐かしい雰囲気がある。
ところで、この資料館の建物自体も、明治期に建てられた木造住宅として、貴重な文化財である。建物は、木造二階建ての半切妻屋根瓦葺きで、三つ葉アーチの優雅な破風に特徴がある。外壁はドイツ式下見板張り、すなわち、通常の下見板張と異なり、上板の下部に刻みをつけて、上部に傾斜をつけて薄く削った下板をその溝にはめ込むという、手の込んだ造作である。施工は戸部村の大工で、170畳、18室という広大な和館に付属する洋館として建てられたものであった。かつて、洋館の1階は応接間、2階は書斎として使われていたという。
居留地境界石
1899(明治32)年に居留地制度が廃止されるまで、居留地と日本人町の間には境界石が設置されていた。その中の一つで、最も初期に設置された1867(慶応3)年の境界石が、山手十番館の前に残っている。細い文字で「居留地界石」と刻まれているのを認めることができる。
獅子頭共用水道栓
横浜開港場は埋立て地であるため、真水の得られる井戸が少なかった。1887(明治20)9月に洋式水道が完成すると、近隣十数軒が共用する水道栓が各所に設置された。最盛期には、市内600カ所にイギリス、グレンフィールド社製の獅子頭のついた水道栓があったという。その一つが山手資料館前にある。またうっかり見落としてしまいそうなくらいひっそりと、水道栓の脇に赤レンガが一つ置いてある。これは居留地内のジェラール煉瓦工場(現元町公園)で作られていたものである。
ジャパン・パンチThe Japan Punch
ジャパン・パンチは、イギリスの風刺漫画『パンチ』をもじって、ワーグマンが日本で発行した雑誌である。1862(文久2)年5月に創刊され、1887(明治20)年3月まで、25年間に170冊が出版された。1886年11月の表紙には、ジャパン・パンチのタイトルの下に、裃に二本差し(実は刀ではなくてペン)のサムライと、松・竹・富士に朝日、つがいの鶴、そしてなぜか犬が一匹、描かれている。このサムライ、ちょんまげに、大きなワシ鼻、きりりとした太い眉が特徴の、ワーグマンの分身である。この人物は「パンチの守」という名であちこちに登場する。
来日前のワーグマン
ワーグマンは1832(天保3)年8月31日に、ロンドンで生まれた。10人兄弟の2番目で、16才年下には後年、ロイヤル・アカデミーに属する肖像画家になった弟ブレイクがいた。ワーグマンの家系は、18世紀初頭にスウェーデンからイングランドに渡ってきた銀細工師だった。そのため、家族はヨーロッパ大陸との繋がりが強く、ワーグマンも、フランス語とドイツ語は母国語並みに使いこなせたという。友人ルドルフ・リンダウの証言によれば、イタリア語とオランダ語は流暢、ラテン語とギリシア語の知識があり、スペイン語とポルトガル語を書くことができ、後に覚えた中国語については、会話には不自由しなかった。
1852(嘉永5)年から2年間パリで絵を学び、帰国後陸軍に入隊。1856(安政3)年、大尉の時に除隊して、通信員としてイラストレイテッド・ロンドン・ニュースに入社した。当時はまだ、写真報道よりも、通信員による描画がニュースの一面を飾る時代であった。ワーグマンは、1857(安政4)年に中国に派遣され、アロー戦争とその後の北京占領などを取材して、状況をつぶさに伝える記事とイラストを送った。
特派員としてのワーグマン
横浜開港直後の1861(文久元)年4月、ワーグマンは香港から上海経由で長崎に到着した。その後、駐日英国全権公使ラザフォードに随行して、陸路で江戸に向かった。ラザフォードの著書『大君の都』には、なぜかワーグマンの名前を伏せて「画家」とだけ記載されている。34日間の旅を終えてイギリス公使館のあった東禅寺に到着したのが7月4日。翌5日未明、公使館は攘夷派浪士の襲撃を受けた。ワーグマンはとっさに縁の下に身を隠し、暗闇から事件の一部始終に目を凝らした。その時の迫力の一場面は、後にイラストレイテッド・ロンドン・ニュースに掲載された。その後も日本の混乱期を取材し続け、幕末および明治維新の日本を知る貴重な資料を残した。1863(文久3)年の薩英戦争、1864(元治元)年の下関戦争、1865(慶応元)年の鎌倉事件の現場と犯人の処刑、1867(慶応3)年の大阪城での徳川慶喜と英国公使との謁見など、ワーグマンは時代の重要場面に立ち会い、加えて複数の関係者の取材に基づき、正確な図像として事件を記録し、配信した。