江戸時代末期、横浜金沢には、美しい入り江となだらかな丘陵が織りなす、のどかな田園風景が広がっていた。イタリア系イギリス人、フェリーチェ・ベアトは、幕末から明治の横浜に滞在し、そんな、古き良き日本の姿を撮影し、野島の浮かぶ金沢八景の写真を残している。
野島公園
金沢の海岸線のすぐ先に、こんもりとした森に覆われた小島、野島がある。かつての金沢は、平潟湾を中心にした複雑な入り江に、野島をはじめとする島が点在する景勝地であった。京急線の金沢八景駅から湾に沿って歩けば、今もわずかに当時の面影を忍ぶことができる。しかし、現在の野島には複数の橋が架かり、住宅地の開発が進んだため、広重の浮世絵『野島夕照』の趣を味わうのは難しい。
現在は島全体が公園として整備され、野球場やバーベキュー場、野島稲荷神社、山頂展望台、旧伊藤博文別邸などの観光スポットがある。
山頂展望台
野島山頂の展望台は、海抜57mの丘の上に立っている。遮るものは何もなく、文字通り、ここから360度の眺望が楽しめる。北は横浜のみなとみらい方面、東は眼下に夏島、その先は千葉県の富津市、南は横須賀、西は鎌倉方面である。訪れる人は少なく、静かでのんびりとした公園である。
伊藤博文の金沢別邸
公園内には、初代内閣総理大臣、伊藤博文の金沢別邸がある。1898(明治31)年に建てられた茅葺寄棟造りの家屋は、野島の東京湾側に面している。岸辺の灯籠は、伊藤が船で来邸する時のしるべとされていたらしい。午前9時半から午後4時半までの開館で、第一、第三月曜日は休館。入館は無料である。
フェリーチェ・ベアト
1832(天保3)年、イタリアの水都、ベネチアに生まれたフェリーチェ・ベアトは、2才から12才まで、英国保護領ギリシアのコルフ島(現ギリシア領キルケラ島)で育ち、その後一家はオスマン帝国の首都、コンスタンティノープルに移住した。1855(安政2)年にベアトの姉妹がコンスタンティノープルで活躍していた写真家、ジェイムズ・ロバートソンと結婚したことが、ベアトの写真家人生と大きく関わることになる。
1857(安政4)年初頭、ベアトと兄のアントニオは、ロバートソンといっしょに中東に撮影旅行に出かけた。パレスチナ、エルサレム、カイロ、アテネ、シリアなどを精力的に撮影し、ロバートソンとベアトの共作で写真集を出版した。ロバートソンは優れた技術者であるとともに、撮った写真で個展を開いたり、商業出版したりするなど、起業家としても傑出していた。ベアトとアントニオは、このロバートソンから多くのことを学んだ。
ベアトの東洋遍歴
1858(安政5)年2月に、ベアトはコンスタンティノープルを離れ、東洋の国々を渡り歩く生活に乗り出した。第一次インド独立戦争とも呼ばれるセポイの乱直後のインドの様子や、第二次アヘン戦争の中国、香港などを写真に収めた後、新しい冒険を求めて、ついに極東の国、日本に上陸した。
時は1863(文久3)年、横浜には外国人居留地がもうけられ、遊歩地域以外への外国人の立ち入りは、厳しく制限されていた。しかしベアトは、日本への飽くなき好奇心と、写真家としての野望を抱えたまま、じっとしていることなどできなかった。イラストレイテッド・ロンドン・ニュースの特派員、チャールズ・ワーグマンと結託して、居留地外へと踏み出していくのである。
日本におけるベアトの活躍
ベアトとワーグマンは、「正式に」居留地の外へ踏み出すことに成功した。日本から特別許可を与えられた外交官に随行して、各地を記録し、取材することになったのである。1863(文久3)年、日瑞修好通商条約締結のために来日したスイス使節団長、エメ・アンベールに雇用されたベアトは、江戸城や浜御殿(浜離宮)、大名屋敷など、江戸の街の最後の姿を写真に収めた。そして1864(元治元)年には、長州藩と列強四国(英仏蘭米)連合軍が激突した下関戦争に従軍して、戦争写真を撮った。
1868(明治元)年、ベアトは日本で最初の写真帖を販売した。この写真帖は、モノクロ写真に精巧な手彩色を施した、日本文化の風俗カラー写真であった。写真帖には、外国人が訪問できる名所を配し、解説も付された。したがって写真帖でありながら、旅行案内書としても日本旅行者の興味をそそり、ベアト・スタジオにおける1870年代のベストセラーとなった。ベアトはこの写真帖に、野島の写る金沢八景の写真を二枚載せており、次のような解説を書いている。
『金沢ほど休日を過ごしたりピクニック行ったりするのによい場所はない。・・・横浜から馬で2時間もあれば行けるところに・・・起伏に富んだ土地と、耕作された肥沃な谷が大きく広がっている。あちらこちらのちょうど良い場所に、一つ二つ島が点在し・・・広大な勝景となっている。』
ベアトの捉えた、幕末から明治の日本の姿はすでにない。かつて旅行者が喜んで手に入れたベアトの写真帖は、当時の日本人にとってはありふれた日常だったかもしれない。けれど、現代日本の私たちから見れば、その景色や人々は、当時の旅行者以上に貴重で、愛おしい記録である。ベアトの写真を片手に、金沢八景の今と昔を見る、という旅はいかがだろうか。