金沢八景

異人たちの足跡 7 料亭千代本

古来より、武蔵国倉城郡六浦庄村と金沢村(現神奈川県横浜市金沢区)には、美しい入江の景色が広がっていた。複雑に入り組む深い湾と、小さな島々が織りなす風景を愛でて、人々は、様々な組み合わせの金沢八景を口にした。

金沢八景

1694(元禄7)年に、水戸藩主徳川光圀が招いた明の禅僧・東皐心越(とうこうしんえつ)は、山の上の能見堂(現在の金沢区能見台森)から見た景色を、故郷の瀟湘八景になぞらえて七言絶句に詠んだ。これをきっかけに、この地域の美しい八つの景色が定着していった。やがて1834(天保5)年に描かれた、歌川広重の浮世絵『金沢八景図』が江戸市民の間に広がり、金沢は一躍、観光名所として人気を博することとなる。1863(文久3)年に来日し、開国後間もない日本の風景と日本人を写真に残したイタリア系イギリス人、フェリーチェ・ベアトの作品には、そんな金沢の最後の姿が写し取られている。

料亭千代本

300年前に創業した千代本は、江戸後期にはすでに老舗の名声を得て、180年前の広重八景図の中の『瀬戸秋月』に描かれている。画面中央の松の右手が千代本、松の向こうに平潟湾と野島が見える。仲秋の名月に照らされた、瀬戸橋からの幻想的な光景である。一方、150年前にベアトが撮った千代本と平潟湾の写真『平潟湾の風景』は、反対側に視点を置いている。こんもりとした山を背に、千代本ともう一軒の茶屋が並んでおり、手前の小島(半島のように見えるが)には琵琶島神社の社殿が見える。現在も千代本と琵琶島神社は変わらぬ位置にあるが、周囲に建物が林立しているため、満々と水をたたえた平潟湾の雄大さは失われてしまった。

江戸時代の千代本は、宿屋を兼ねた茶屋で、船遊びを楽しむ客や、寺社仏閣巡りを終えて羽を伸ばす旅人などで賑わった。江戸市民の人気コース、大山−江ノ島−鎌倉詣での巡礼の旅の最後を締めくくるのが、金沢での羽目を外した大宴会だったという。明治時代になると、遠来の客よりも、伊藤博文や山本五十六を始め、政治家や海軍関係者が多く訪れるようになる。千代本の女将の話によると、お偉い方々は、平潟湾から(軍艦?や)自家用船を乗り付けて座敷に上がり、歓談(や密談?)の後、また静かに船で帰って行くのが常だったとか。

千代本は予約のみの営業で、食事は一人13000円から。個室でゆっくり、食事とお酒と景色を楽しむ料亭である。どの料理も上品で美しく、おいしかった。長い廊下には優しい灯りがともり、そのまま歩いていくと、どこか別の時代に吸い込まれてしまいそうな気がした。食事が終わる頃、女将がさっと障子を開けた。部屋の灯りが消え、松の木の間から平潟湾の夜景が浮かび上がった。水辺を走るモノレール、シーサイドラインが、闇の中に光を反射させながら通り過ぎると、仲居さんが言った。「ここから銀河鉄道が見えるんですよ。」

フェリーチェ・ベアトの鎌倉旅行

1864(元治元)年11月19日、ベアトと、画家でIllustrated London Newsの特派員ワーグマンは、外国人居留地のある横浜を出発して、一路金沢に出かけた。ベアトは写真帖に、横浜から馬で2時間もあれば行ける「お気に入りの場所」として、金沢を紹介している。ベアトとワーグマンは、根岸湾に沿って海岸線を走り、起伏に富んだ絶景にしばしば馬を止めつつ、金沢に到着したと思われる。そして翌20日は、鎌倉を散策し、鶴岡八幡宮や大仏を撮影している。その後、長谷から七里ケ浜に馬を進めた後、江ノ島を訪れた。二人は、参道の土産物屋を冷やかし、神社などを見物している。21日の朝、ベアトは江ノ島で、横浜駐屯地から遊びにきていたイギリス人士官らと朝食をとった。いっしょに鎌倉へ行かないかと誘われたが、ベアトは丁重に断っている。そしてワーグマンと藤沢へ向かった。午後7時頃、宿に着いたベアトの元に、イギリス人士官殺害のニュースが届いた。ベアトとワーグマンはすぐに鎌倉に引き返し、事件現場を取材、撮影している。1862(文久2)年に起きた英人殺傷事件、生麦事件の2年後のことである。

来日前のベアトは、インド、中国などで戦場カメラマンとしてのキャリアを積んでいた。古い時代が、新しい歴史で塗り替えられる瞬間を記録し、伝えることが、ベアトに与えられた仕事だったのかもしれない。

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