九頭竜川は奥越大野と岐阜県境にある油坂峠を源に福井平野を下り、三国で日本海に注ぎ出る全長116キロの大河である。
丸岡鳴鹿辺りから扇状地上を流れるため、大雨時には放射状に幾筋にも川筋が乱れ、これまでたびたび氾濫を繰り返してきた。
さながら九つの大蛇が暴れまわる様子であるところから「九頭竜川」の名称となった。
この氾濫によって当然のことながら大量の土砂が河口に堆積した。
九頭竜川河口工事は古くは継体天皇の時代にまでさかのぼる。
福井平野は穀倉地帯であり荘園としての価値が高かった。
そのため氾濫の被害を食い止めるために九頭竜川の河川管理は重要課題だったのだ。
しかし昔の土木技術はまだまだ稚拙なものだった。
「崩れ川」の異名を持つ九頭竜川が暴れ川の汚名をも返上するには、明治期の西洋の土木工学の導入を待たなければならなかった。
明治政府から派遣されてきたのはオランダ人エッセルとデ・レーケの二名の土木技師だった。
江戸の鎖国下にあって唯一交易をしていたオランダの土木技術に政府が着目したのも自然な流れだったのだろうか。
彼らは当時としては画期的なオランダ土木技術を用いた。
それは、粗朶沈床(そだちんしょう)といわれるものである。
粗朶(クヌギやナラなどの苔枝を束ねたもの)をかご状に組み、その中に石を入れ沈めたものを基礎とし堤防を拵える。
日本海の冬の荒波の影響を受けにくい工法によるこの堤防は「エッセル堤」の愛称で三国の人たちに呼ばれ親しまれている。
日本に明治時代に築かれた港「明治三大築港」の一つとして100年以上経った今日でも現役で機能しているのだから見事というほかない。
三国が誇る大きな遺産である。
初冬ともなると、堤防の先端は荒波が砕けて近寄れない。
しかし堤防元では水面はぴたりと凪いでいていて、多くの釣り人たちが糸を垂れている。
粗朶沈床には多様な魚の生息地となっているのだ。
コンクリートだとこうはいかない。
話し込んだ釣り人の男性から、スズキのポイントを教わった。
晩酌用に1匹釣りに今度竿を担いで来よう。